アリア人の孤独
松永延造

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)未《ま》だ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)その後|成《な》る可《べ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]

※底本の本文中に使われている《》の記号は、ルビを表す記号と重複しているため、〈〉に置き換えました。
−−

       一
 私が未《ま》だ十九歳の頃であつた。
 私の生家から橋一つ越えた、すぐ向うの、山下町××番館を陰気な住居として、印度人〈アリア族〉の若者、ウラスマル氏が極く孤独な生活をいとなんでゐたと云ふ事に先づ話の糸口を見出さねばならない。彼れが絹布の貿易にたづさはつてゐる小商人だと云ふ事を私は屡《しばし》ば聞いて知つてゐたが、然《しか》も、彼れの住居には何一つ商品らしいものなぞは積まれてゐなかつたし、それに、日曜以外の日でも、丁度浮浪者の如《ごと》く彼れが少しも動かない眼に遠い空を見つめつつ、横浜公園の中を静かな足取りで、散歩してゐる所なぞを私は時々見かけたりしたので、そのため、段々と彼れについて次のやうな独断を下すやうになつた――
「彼れが少くとも一商人であると云ふ事は、彼れの為替《かはせ》相場に関する豊富な知識なぞに照しても、充分推定し得る。然し彼れは今や恐らく破産して了《しま》つたのだ。」
 私にそんな独断を敢《あ》へてなさしめた、もう一つ他の理由はと云へば、それは斯《か》うである。
 彼れはその以前迄、一人だけであの旧風な煉瓦造《れんぐわづく》りの××番館全体を使用してゐたが、間もなく、建築物の大部分をシャンダーラムと呼ばるるアリヤンの一家族へ又貸しをして了ひ、自分は北隅に位置をしめた十二畳程もある湯殿へと椅子《いす》や寝台を移し、そこで日夜を過ごす事に充分な満足を感じてゐたのである。
 元来××番館はその始めアメリカの娼婦《しやうふ》が住んでゐた建物なので、他の何《ど》んな室よりも湯殿が立派な構造を示してゐた。それは湯殿と云ふ名で呼ばれ乍《なが》ら、然も、半分は客間に適するやうな設計の下に造られたものであることが確かだつた。
 先づ、其処《そこ》へ這入《はい》つて行くと、灰白色の化粧煉瓦の如きもので腰を巻かれた、暗い水色の壁が私の眼を打つた。天井はエナメル塗りの打ち出しブリキ板で張られ、床は質の好い瀬戸物で敷きつめられてゐた。東の隅《すみ》には古びた上流しが附いてゐた。昔は其処に洗面のための設備が全部ととのつてゐたのであらうが、今では、其処が水で濡《ぬ》れる機会もなく、ウラスマル君の書見台に代用されてゐたのであつた。
 この室の小さい窓は外部から覗《のぞ》き込まれぬため、非常な高所に開かれてゐた。それで、私が庭から窓へ向つて、
「ウラスマル君……」と呼ぶと、彼れは穴の底から湧《わ》き出して来るやうな沈んだ声で斯う答へた――
「ウエタミニ。今、踏み台へ乗るから。」間もなく、窓の扉《とびら》が動き、そして眉毛《まゆげ》と眼との間の恐ろしく暗い彼れの顔が其処へ表れるのだつた。

 或《あ》る闇《やみ》の夜、私は又しても、庭づたひに、この小窓をさして歩み寄つて行つた。そして、思ひがけぬ一つの状景を発見した時に、進まうとする足を急いでひかへる必要を感じたのだつた。
 見ると、若きウラスマル君の太い右腕が例の高い小窓から静かに突出してゐた――いや、そればかりでなく、その手は非常に古風な手下げラムプをしつかりと握つて、虚空《こくう》へ垂《た》れ下げてゐるのであつた。豆ラムプの細い燈心には人の眼を竪《たて》にしたやうな形の愛らしい焔《ほのほ》がともつてゐて、その薄い光りが窓の前に伸びた無花果《いちじゆく》と糸杉の葉を柔らかく照し出して居た。勿論《もちろん》その時、室内にあるウラスマル君の顔も姿も私の見得る所ではなかつたし、私自身の足音も極く静かなものだつたので、私の来訪は彼れの気附く所でなかつた。
 私は未だその時、僅《わづ》か十九歳の少年であつた、その事を何《ど》うか酌量《しやくりやう》して許して貰《もら》ひたいのであるが、私はウラスマル君の斯《こ》んな行為が何んな目的から為《な》されてゐるのかと云ふ疑問に対して深い興味を持たずにはゐられなくなつた。
 それで私は息を殺し、横合の物影に佇《たたず》んで、事の成り行きをうかがつたのである。
 ウラスマル君の腕は突き出された儘《まま》少しも動かなかつた。晩春のゆるやかな風はむせるやうな若葉の匂《にほ》ひを闇の中に吹き送つて来ては、又吹き消しつつ、その終る事もない無形な遊戯をいくどでも繰り返してゐた。五分、十分、二十分さへが過ぎて行つた。然も、腕は依然として不動であり、燈の焔は人の眼を竪にしたやうな形
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング