来合してゐるのではないかとあたりへ眼をくばつた。然し、似よりの影も見当らぬので、私は直ぐ、ウラスマル君のうしろへと近づいて行つた。その時、突然、私の鼻を打つたものは、若葉の匂《にほ》ひから明確に分離してゐる、あのカシミヤブーケの高い香《かを》りであつた。その香りは又しても私の心底へ「恋の奴《やつこ》の哀れさ」を想起せしめるに充分であつた。
私は彼れの肩をうしろからそつと叩《たた》いた。彼れは驚いて、彎曲にしてゐた背骨を急に反《そ》りかへらせた。見ると、彼れの眼は心持ちうるほうて、その深さを一層濃いものにしてゐるやうだつた。そこで私は彼れの率直な挙動を哀れがりつつ、慰め顔に斯う云つて見た――
「話して下さいよ。貴方の恋の事を……」
「恋?」と異国人は黒い眼を奥底から光らした。
「だつて、貴方の香水がそれを語つてゐますよ。」
「あゝ、それは大変ちがふ……あの若い女は最近本国から浮浪して来た乞食《こじき》の一種なんです。彼の女の腕環《うでわ》なぞも、高利をはらつて、或る印度商人から借りてゐるものに過ぎぬ。私は彼の女と二人きりで同席する事を恥ぢたからこそ、風琴迄持出して貴方を引きとめたのです。」と、彼れは悲しげな声でささやいた。
四
私は大きな悔いを以つて、自分の誤解と錯覚とを顧みた。何故であらう? その答へを簡単に語るなら、斯うなのである。
――四ケ月以前、ウラスマルは、本国に唯だ一人残されてゐた母親を、横浜へ呼び寄せようとして、自分の儲《まう》けた可成り大きい金子《きんす》を故郷へと送つたのであつた。母は直ぐ旅に立つた。彼の女の乗り込んだ船はS・S・Y・丸であつた。けれども、途中、その汽船は他の非常に大きい汽船の船首へと、右舷を打ちつけた。約十尺ばかりの大穴が船腹に開くと見るまに、傷附いた船は高い浪《なみ》の中に沈んで了《しま》つたのである。その時はまだ非常に寒い季節の中にあつた。云ふ迄もなく、母親は悲惨な死を遂げ屍骸《しがい》の行衛《ゆくへ》さへも不明となつたのである。
――その母親が生前、儀式の時に限り、好んで身へつけたのがカシミヤブーケであつた。毎日をひどい悲しみで送り迎へてゐた孤児のウラスマルは、偶然にも、一日、シャンダーラム夫人が母のと同じ香水をつけてゐるのを嗅《か》ぎ、深い感動の内に、彼れは亡《な》き母の姿を幻覚した。彼れは懐《なつ》かしさの余り、その香水を所有したいと云ふ欲望にかられ、ほんの一二滴をシャンダーラム夫人へ乞《こ》うた訳なのである。
――今日、彼れは自身の体へその香水を振り撒《ま》いた。それは元より恋するものの身だしなみとしてではなく、母の姿を追ふ孤児の、せめてもの思ひやりとしてであつた。――
以上の告白を、とだえがちに語り終つた時、孤独な異国人のうるほうた眼は一層そのうるほひを増し初めた。苦痛の色は彼れの厳粛な前頭部を一層淋しく変化せしめた。
深い――然し極く単純な感動が私の胸をも打たずには居なかつた。私はどもりつつ、自分の早計な独断を重ね重ね詫《わ》びた。
闇《やみ》のおそひ初めた街路を一人で帰つて行く途中、私の心の中には異常に凄壮《せいさう》な大きい青海原《あをうなばら》が見え初めた。その冷却した透明な波の上に、少しも腐蝕する事なき四肢《しし》を形ちよくそろへた老婆の屍体は、仰臥《ぎやうぐわ》の姿で唯だ一人不定の方向へとただよつてゐた。
私の眼は急に涙の湧き上る熱を感じた。私は思はず立ちどまり、もう一度、ウラスマルの居宅の方を顧みて詫び入りたい心持ちになつた。今ことごとく想起する事が出来るではないか? ウラスマルが曾《かつ》て窓から闇をのぞいて、二十分間もその体を静止したままでゐたのも、結局は、恋の思ひに打たれてではなく、彼れの不幸なる母の死を、ただ一人で悲しんでの事であつたに相違なかつた。
私はウラスマルが曾て不図《ふと》口走つた次の如き言葉の断片を懐かしい感じの内に想起し得る。――
「闇は際限もなく広大なものではあるが、然もそれを見ようとすると、きはめて小さい部分しか目に写つて来ない。」
恐らく、この言葉には何の特別な意味も理由もないに相違ない。けれども、一個の人間が折にふれてその心底に感じた通りを口に上せた言葉は、別に何の深い意味がなくとも、それ自身で充分愛するに足るものではなからうか? いや、強《し》ひて考へをめぐらすなら、この言葉はやはり「死」と何等かの関聯を持つたものとも云はれるだらう。死は確かに一つの深淵《しんえん》であり、我れ等の誰れもが未だかつて、その全様相を見きはめたと云ふ話を聞かぬからである。
[#地から2字上げ](大正十五年二月)
底本:「現代日本文学大系 91 現代名作集(一)」筑摩書房
1973(昭和48)年3月5日初版
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