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「私は何んな場合でも、極く自然に幸福を自分のものとした例を知らない。では、何うして私は幸福をかち得たか? 何時も不幸でもって、幸福を買ったのである。例えば、私は幼い時から、日本へ渡って来たいと憧憬《あこが》れた。然し、その願いが果たされたのは、横浜で病いにかゝった叔父を看護する目的からであった。
又、私は君と大変親密にして貰って嬉しいが、そうなる為めには、私の病気が色々と機会を造ったのではないか。」
八
ラオチャンドの死は意外に早く来た。
生憎《あいにく》、私は副院長の用事を帯びて、N地方へ旅行に出ていたので、ラ氏の臨終を親しく見届けてやる事が出来なかった、それを私は今尚お残念に思っているのである。
彼の[#「彼の」は「彼れの」の誤記か]屍骸が病院から何処へともなく運び去られて後、約一カ月程して、私は漸く旅行先から病院へと立ち戻って来た。
その時、多くの医師たちは既にラ氏の名前を忘れ去って、唯だ「印度人」と呼んだりしていた。
私は久々に自分の事務机へ向って坐った。そして吸取紙を出すために、机の抽出しを半分程明けた。抽出しが妙にきしむので、私は間に何か挾まっている事を察して、指を其処へ差し込んで見た。窮屈に圧されて、縮んでいる邪魔物をそっと引き出して、何の気なしに開いて見ると、それは未だ私が手を触れた事もない一通の手紙であった。差出し人はM丸乗組みの印度船員某、名宛人は院長及び副院長となって、その内容はほぼ次の通りの英文であった。
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此の間、横浜へ寄港した次手《ついで》に、私たちは貴院の施療部で御厄介になっているラオチャンドを見舞ってやった。彼れは瀕死の病者で、その上、自活費を一銭も持ち合していない貧者であった。凡ての費用を貴院から仰いでいる由を承知して、私たちは、哀れな同胞に対する院長の厚い同情を深く感謝している次第である。御恩の程は決して忘れる事が出来ぬであろう。
私達は横浜出立の間際に、ラ氏死亡の旨を貴方達から聞いて、驚きもし、悲しみもした。尚お貴方方から私達へお託し下された、シャツ、ニッケル指環、笛等は間違いなく、彼れの母(今は某家に乳母をつとめている)の下へと届ける事をお約束する。
私たちが故国へ帰着した時、先ず第一に同胞へ説き明かさねばならぬ事は、院長及び副院長の此の上なき懇切な御所業である……云々…
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