ラ氏は侮辱されたような顔付きで眺め入ったが、軈《やが》て、
「私の血が再び動き出した……」と、悲しそうに私の方を振り向いて呟いた。
「それより、静かに臥さねば……」と、私も亦落ちつかぬ心で彼れへ言った。
「私の国では、寝た儘で祈るという風習はない。」と、彼れが頑固に返答した。そして何事かをパーリ語で唱えては、体を前後に揺するのであった。

     七

 再び美しい月の夜が来た。
 私は以前に一度経験したと全然同じ情景を、月光の下に見出して少からず驚かされた――ラ氏が唯だ一人で、物干し台の鉄の梯子をよじ登ろうとしていたのである。私は長い廊下を急いで、彼れの跡を追って行った。そして、広く冷たい天空の直下で、漸《ようや》く彼れと向き合う事が出来た。
「骸骨《がいこつ》が斯《こ》んなに歩きます。」彼れは弁解するというより、寧ろ、陳謝する如く、そう私へ囁《さゝや》いた。私はその一言を聴くと、最早|何《ど》んな難詰の言葉を見出す力をも失った。そして、この夜こそ、恐らく、彼れが大きな天空を眺めて楽しむ最後の時となるだろうという事を、独り黯然《あんぜん》と予覚するのであった。
 この美しい月光の宵《よい》、私と彼れとは短い時間の内で、極めて多くを語り合った。
 色々な会話の中で、殊に私の注意を惹《ひ》いた部分は次の三つに他ならなかった。
 ラオチャンドは言った――
「私の手に手袋がはまっている。私が手を動かすと、手袋も斯んな風に動く。然し、(此処でラ氏は手袋をぬいだ。)手から引き離すと、労《つか》れたようにうなだれて、もう決して動かない。不思議ではないか。」
 又、ラ氏は物語った――
「私の叔父に書物を広く読んだ、優れた人があった。彼れは矢張り私と同じ疾患で仆《たお》れたが、病臥の日の中で、私へ斯ういう事を教えて呉れた。
 ラオチャンド、分るか。月が虧《か》けている時、それは本統に半分を失って了ったように見える。けれど、実は何者をも失ってはいないのだ。私が不意に居なくなるとしても、それは月の部分が虧けるようなもので、実は何も変った事は起っていないのだ。」
 この言葉につれて、二人は思わず頭上の天を眺めやった。私は深い困惑に落ちて、この異国人の旅愁を少しでも和らげてやりたいと願った。然し、ラ氏は最早全く感情的なものから遠ざかって、平和に微笑んだ。
 更に彼れは斯う呟《つぶや》いた
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