居る。宋の楊萬里の上巳[#「巳」は底本では「已」]と題する詩の轉結には、鞦韆日暮人歸盡、只有東風弄彩旗とあるが、これはもとより野外の鞦韆をさしたものであらうけれど、家庭のものにも柱頭に彩旗を掲げぬとは限らず、且つ宋代のみならず、或は其以前にも旗を飜へらしたかも知れない。又同じ蔡羽の詩中に青絲流蘇兩頭繋といふ句があるが、これ或は鞦韆の踏臺になつて居る横木即ち架に、總を垂れて飾としたのをよんだのではあるまいか。
 主として鞦韆の枝を弄んだ者は男子ではない。此點に於て西洋と似て居る。明の王問の鞦韆行に、此戯曾看北地多、三三五五聚村娥とある。此北地は江北を斥したので、所謂北方山戎のことではないが模倣した支那の側で女に限つて居るのによりて考へると、以習輕※[#「走+喬」、736−5]とは云ふものゝ、北方山戎に於ても或は女のみの遊戯であつたかも知れない。又鞦韆をやる女の年輩は、王建が少年兒女重鞦韆と云へるを見ると、若い者を主としたやうであるが、若いと云つても今我邦で云ふ小學兒童といふ年頃よりは、いま少し長じた程度のもので、王問の詩には幼女十五纔出閨、擧歩嬌羞花下迷、自矜節柔絶輕※[#「走+喬」、7
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