ものがないことを考へると、さまでに古るい起こりでなささうに思はれる。けれども荊楚歳時記に三月寒食に行ふ遊戯の中に、鞦韆といふ名目があるから、假りに此宗[#「宗」は底本では「宋」]懍なる著者の年代が稱する如くに晋にはあらずして、之を梁の元帝頃の人だとする四庫全書提要の説に從ふとするも梁代には既に荊楚地方に行はれて居つたことを明かにし得る。而して北方山戎の戯が荊楚地方に行はれ、而かも年中行事の一となる迄には、相當の年代を經ることを要することをも併せ考ふる時は、鞦韆の輸入は梁よりも早かるべく、齊か宋か或は晋かも知れぬ。して見れば同じく北方蠻人との交渉から始まり、齊の桓公や漢武などではなくとも、五胡七國の頃に既に渡つたものと見るのが妥當だと云ふことになる。
 支那の鞦韆が晋か六朝の初め頃からのものであるとしても、其時代の文献では其如何なるものなるかを知ることが出來ぬ。之を詳にし得るのは唐以後のものについてゞある。唐の鞦韆の樣式には樹枝を利用するものと特に柱をたてるものとの二種あつたらしく、其うちで樹枝を利用してそれに繩をかけ架をつるす方は、本來のやり方であらう。王建の鞦韆詞には嫋嫋横枝高百尺と
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