が、最も早く文献に見えたのは宗懍の荊楚歳時記以外には隋書の藝文志に載せてある古今藝術圖を以て始めとするらしい。唐人の引用して居るのは多くはそれだ。但し此書今は湮滅し、引用文は諸家區々であるので、古今藝術國にあつたといふ説明の原文の、如何なるものであつたかを斷定すること容易でないが、藝文類聚や初學記や又は太平御覽、等に散見する引用文を比較すると、多分鞦韆北方山戎之戯、以習輕※[#「走+喬」、732−3]者とあつたらしい。即ち支那に生えぬきの遊戯ではなくして、北方の蠻俗の輸入されたものだと云ふ事になる。然しそれだけの説明書では、六朝時代に既に支那に行はれたことを示すのみで、其以前如何に早く輸入されたものかを語らない。そこで之を漢の武帝の時からとする説も生じた。此説の何人により唱へ始められたるかは分明でないが、唐の高無際の漢武常後庭鞦韆賦の序に考古之文苑、惟鞦韆賦未有作、況鞦韆者千秋也、漢武祈千秋之壽、故後宮多鞦韆之樂と見えるなどは最も古るきものであらうと思はれる。然しながら字典に鞦韆はもと秋千とも書きしもので、遊戯の名稱を音であらはしたに過ぎず、特に革に關係を有して居る譯ではないと云つてあ
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