仮名ワ、1−7−82]ースの畫に屡見えるに徴しても明かで、それ等の繪によれば、當時の鞦韆は二本の繩で腰掛け樣のものをつるし、之に腰を掛ける女は最初他人をして後から推さしたものゝ如くである。又神話には頓著せず、罪を攘ふとか悔い悛めるとか云ふ意味も籠もらせずして、却へりて歡樂をつくす方法としてもてはやされたことは、鞦韆の※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ース畫には興に耽ける婦女の側に或はエロス或はシレン等を添へ畫くを例として居るのでも、之を知ることを得べく、極めてなまめかしい種類の遊戯であつたのである。
 此遊戯はバックス崇拜と共に、希臘から西漸して羅馬に入り、オスキルムと云ふ名稱で盛に行はれた。それからして先きの傳播の徑路は詳に知るべきよしもないが、十七世紀頃には佛蘭西其他の諸國にもてはやされ始めて居る。蓋しそれは羅馬の流れを汲んだものと認めて差支はなからう。佛蘭西では此遊戯をバランソアールと云ひ、其最も流行したのは十八世紀で、當時は之を畫題として美人を描く者も多く、畫家フラゴナールの如きは此種の作品に富んで居る。愛姫をして態々鞦韆に倚らしめ、彼を招きて寫生せしめた風流子もあるとの事
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