ら、倭名抄に斯く收録したものか又は鞦韆の譯名としてゆさはりの語が出來たものか其邊は明かでない。但し嵯峨上皇の鞦韆篇に叙してある鞦韆は、全く唐朝のものと同じく極めて念入りのものであるから、若し當時日本に行はれたものを咏ぜられたとするなら、それは恐らくは輸入であつて本朝固有の遊戯そのまゝではあるまい。而して此鞦韆も衣服が次第に改まつたのと、其他の事情とからして遂に一旦全く廢絶に至つたものであらう。けれども顯昭の袖中抄を編む頃は、此記臆の丁度將に絶えむとする時代であつたと見え、一首の歌を擧げ、孫姫式を引用して、之を説明して居る。其一首の歌といふのは諸本共に五の句が不分明であるけれど、要するに鶯が梅が枝にゆさはりしこと、梅のむはらで尻を刺す恐れがあるから用心せよとの意を讀んだものである。
 袖中抄を最後として、久しい間鞦韆に關する文献が我國に缺けて居る。上總夷隅郡萬木城の麓なる妙見社の秋祭に此戯ありて、太平記の頃の古俗を傳へ、其名をツリマヒと稱すること、房總志料に見えたりと云ふからには、斯かる遊戯にも間に合ふべき服裝した田舍人の間には、上總に限らず保存されたかも知れぬけれど、今其跡をたづねて平
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