る荘園からして説こう。三条西家の所領は各地に散在しておりその最も近くに在ったのは、山城に在るもので、桂新免、石原庄、塔森庄、鳥羽庄。この四つはみな桂川に沿うている。美豆御牧、あるいは単に御牧、これは河を隔てて淀と相対している。それからして富森、三栖庄これは伏見の西南に在る。これらの所領からして得る収入は、石原庄で麦若干、米一石前後、地子月別五十疋くらい、塔森からは月別銭で少ない時は七十疋、多い時は百五十疋くらい、一か年一貫七百文納入になったことがあるが、それは大永五年のことであるからして、それ以前にはいま少し収入が多かったろうと思う。鳥羽庄は文明十一年に中沢重種をもってその代官職に補したと記してあるが、この中沢は鳥羽庄のみならず石原塔森等をすべて管理しておったことがあるらしい。この庄の収入は、つまびらかにし難い。ただ西園寺家と共同にこの鳥羽庄の領主であったらしく、畠山の被官人とこの荘園を争い、訴訟に及んだ時には、西園寺家と連合してこれに当り、本所の方が勝利を得たから、使者をもって互に祝著同心の旨を告げたとある。しかしながら、共に同一庄園の主であるところから、時として争いも起こる。荘園の住人鳥羽新三郎の闕所《けっしょ》作分につき、西園寺家の方よりして押妨《おうぼう》をしかけたから、重種が西園寺家へ出向き、先方の家職と談判していい伏せたとある。富森は麦の収納があり、地子は大永五年の年末に二十疋とあるからあまり多くはなかったろう。富森から川岸に沿いてさかのぼれば、三栖庄になる。この庄は三条家の古くからの所領で、正親町三条家からして分れた時に、これを分領することにしたものらしい。代官としては日記永正元年の条に、山本太郎左衛門という名が見え、塔森の侍なりとしてある。この三栖に上下の二つあるが、上は正親町三条家の手に残り下は西家に伝った。日記明応五年四月の条に、東隣すなわち正親町三条家から三栖庄内で鷹にとらしたという青鷺をもらった記事がある。この三栖の所領からも米と麦とがとれた。この麦をば祇園因幡堂に施入するのが、三条家の嘉例ということになっている。三条家に限らず、当時京洛の士民はみなこの因幡堂の薬師を信仰し、祈願を籠めたものであるが、わけても実隆のごときは、尊崇すこぶる厚かった。しかしてかかる施入に対し、因幡堂からは、年々香水を三条家に送ることこれまた例になっておったのである。三栖の年貢米は日記大永七年十月二十八日の条に四斗を般舟院から受け取ったとあるが、これのみならばはなはだ僅少なものである。のみならずその四斗も実際三条家で桝にかけて見たら、三斗一升しかなかったと記してある。紀伊郡散在の所領は前述のとおりであるが、その北にして対岸なる葛野郡の東南隅にあるが、すなわち桂新免河島の所領であって、年貢は米であった。かつこの地もまた西園寺家と共同の所有であったらしい。
次は綴喜郡の北端、淀川と木津川との落ち合いで、後の淀城の対岸なる美豆の御牧である。日記には略して単に御牧と書いてある方が多い。その代官に関しては、明応ごろに中村宮千世丸という名前が同五年三月の日記に見えておる。ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。これあるいは前に掲げた森弥次郎かも知れぬ。この庄からしての収入は百疋の年貢と茶とである。茶は一袋一斤半ずつの懸茶二十四袋が例となってあった。淀の魚市の年貢、これもまた収入の一であったが、これに関してもまた西園寺家との間に紛争のあったことは、明応五年の日記にしばしば見える。一旦は訴訟になり、幕府の裁決を仰がんとしたが、西園寺家からして、三分一年貢においては違乱を止めるとの一札を出して、事落著したことがある。この魚市からの収入は別に雑掌あるいは代官をしてこれを取り立てさせておったが、その代官の名には、明応四年ごろ玉泉という者をもってこれに任じたことがあり、永正元年には和泉屋すなわち四条烏丸太志万平次郎といえる者補任されて請文を出したとある。月宛銭は市況によって一定せず、百疋、百五十疋、二百疋等さまざまであり、正月七月十二月には別に増徴があり、往々にして二貫文以上に達したとあるから、三条家の収入として先ず主なる財源といわねばならぬ[#「いわねばならぬ」は底本では「いわぬばならぬ」]。また所領と称するのはいかがわしいかも知れぬが、京中にも三条西家の所有地があった。一は旧跡なる武者小路で、一年両度の地子百三十疋、ほかには六条坊門の地子で、盆暮八十疋の収入があった。
以上は山城国に散在する所領からしての表向きの収入を述べたのであるが、なおその外にもこれら所領からの臨時の収入がある。正月には三栖庄から嘉例として八木の進献があり、武射饗三および打竹をも進上する。鳥羽庄からは鏡餅を持って来る。端午《たんご》の節句が近づくと、同じく鳥羽庄からして菖蒲の持参に及ぶ。続いて瓜の季節になると御牧から花瓜を持って来るので、その一部を禁裏に進上する例になっている。同じく御牧から八月には茄子を持って来る。九月になると祭礼の神酒一桶を三栖庄から送って来る。十月には自然生芋を御牧からよこす。屋根を葺くための葦は御牧から取り寄せる。また御牧の代官の嘉例の進物茶十袋という定めもあり、同じ御牧から秋には大根百本くらいを納めた。これも幾分を禁裏に献上したのである。なお御牧に在る三ヶ寺からは、正月年頭の礼に何か進上したらしい。のみならずこれら所領の多くは河沼に接しているので、したがいて魚介の利があり、石原庄からは鯉を献上しているが、なかんずく魚の最も多くとれるのが三栖で魚の種類は鱸《すずき》を主とした。百姓の多数は半農半漁であって、その代替りの礼などにはこの鱸持参でやって来る。
三条西家はこれらの物を収得するばかりでなく、当時荘園一般の例として、その所領から人夫を徴発した。人夫を出すのは主として御牧で、あるいは庭の草の掃除のため、あるいは屋根葺のため、あるいはその他の普請のために呼寄せられている。また三条西家自分用のためのみならず、荘園の主として幕府から人夫を課せらるることもあった。たとえば義政の東山の普請につき、文明十七年春厳重な沙汰を受け、西園寺家と相談のうえ百十人の人夫を出したごときはその一端である。
かく述べたてると山城国から得られる三条西家の収入は極めて多端であるように見えるが、実隆の晩年大永七年ごろになると、御牧のみの未進が十二貫文の多きに至っているから、他もこれに準じて未進が多かったろうと思われる。山城に在る分すら右のとおりであるとすれば、ましてそれよりも遠い国々にある所領からは、満足に年貢の納まろうはずがない。次には実隆がいかなる苦心をして遠国からこれを取り立てたかを叙述しよう。
山城国以外で京都に近い三条西家の荘園を算《かぞ》うれば、先ず丹波に今林の庄というがあった。本来どれほどの収入があったのか知れぬが、文明九年には十石の分を竜安寺に寄進したとある。おそらくは爾後三条西家へは、ほとんど年貢米の納入がなかったのではあるまいか。日記永正七年十月の条に「年貢米二石初めて運送の祝著極まりなく千秋万歳自愛自愛」とあって、思いがけなかった仕合わせのように記している。しかして同年内になお二駄の年貢米がまた今林庄から納付になっているからして、三石六斗の合計になり、かなりの収入となったのである。なお丹波にはこの今林庄のほかに桐野河内という所から莚の年貢があり、土著の代官として、明応四年に片山五郎左衛門、同六年に月山加賀守という者が見えている。これらの代官は主として苧《からむし》の公事《くじ》のために置いてあるので、莚の方は実は第二だ。この地方から秋になると柿や松茸などを鬚籠に入れて送って来たことが日記に見える。
遠近の丹波と相|若《し》くのは、摂津富松庄である。富松は河辺郡と武庫郡とに分れて、東西富松の二つある。しかして富松庄は三条西家の専領ではなく、むしろ西園寺家の所領というべきもので、三条西家はわずかにその三分一をのみ取得としておったことが日記の永正三年四月の条に見え、西園寺家でこの荘園を沽却《こきゃく》しようとするから、その三分一の権利を三条西家に保留してあることを奉書の中に記入してもらいたいと、幕府へ申し入れた記事がある。して見ると東西に分けて分領したのではなく、富松庄の表向きの領主は、西園寺家だけであったろう。しかしこの庄の代官としては、日記文明十八年と延徳二年の条とに、富田某という名があらわれて、その註に「細河被官人薬師寺備後の寄子《よりこ》」とある。この代官が延徳元年に上洛した時には、柳二荷、鴈《がん》、干鯛、黒塩三十桶、刀一腰(助包)持参に及んだから、実隆はこれに対面し、かつその返礼として、以前義尚将軍から鉤りの里で拝領した太刀一腰を遣わしたとある。丹瓜がこの富松の名物と見え代官からこれを進上しているし、それのみではなく正月の若菜および盆供公事物を送って来る例になっておった。年貢米がどれだけあったかは判明しない。
摂津の先きの播磨《はりま》の飾磨《しかま》郡にある穴無庄、同じく揖保郡にある太田庄、また共に三条西家の所領であった。穴無の郷の公用というのは、その公文職の年貢なので、年一千疋が定額であったらしい。守護不入の地とはいうものの、延徳ごろの代官たる中村弥四郎のごとき、守護赤松の被官人であって見れば、陣夫銭その他の課役を納めぬわけにも行かず、故に三条西家からしきりに催促されても、半分くらいはこれを翌年廻しにする。現に延徳三年十一月のごときは、右の中村が赤松に催されて、坂本の陣中に在り、そこへ三条西家の使者が出かけて催促したけれど、要領を得なかったのである。その後次第に納額が減少し、三百疋の年もあり五百疋の年もあった。この郷からの収入は三条西家の青女の所得になるので、あまりに少ない時には青女憤慨して受け取らずに突き返そうといきまいたこともあるが、代官の方から守護の配符数通を添えて、公用減少の理由を証明されると、どうすることもできなかった。かくて永正の[#「永正の」は底本では「永の正」]初年には遂に全く無音となり、同三年の春になってようやく前年分、しかも少分のみを納めたに過ぎなかったが、この時になると実隆もいよいよあきらめたと見え、「形のごとしといえども珍重す」と記して喜悦を表している。しかしてその翌年になると安宗左衛門という者が代官に補任され、大永四、五年ころの公用は、五貫三百文というのが定額と認められた。
太田庄の所領もまた全部ではなくして三分の一であったろうと思われることは文亀三年正月二日の条に見えているが、とにかくこの庄からして三条西家に入るべき公用は年千疋であって、しかも他の諸庄に比べ、比較的正確に納付されたらしい。代官としては文明十六年の末に安丸なる者の没落したこと、その後任として太田垣与二なる者望んでこれに補せられたことが見えている。この庄からの収入をも、三条西家ではやはり青女どもの給分に宛てておったのであるが、これを受領するには直接ではなく、建仁寺の塔頭《たっちゅう》大昌院を経由した。故に滞りなく千疋納入になった時には、実隆大悦で、わざわざ大昌院まで出かけ一緡《いちびん》を礼に与えたくらいだ。明応五年に広岡入道道円という者をその代官職に補したところが、その年には恒例の千疋のほかに、補任料をも添えて大昌院経由で送って来たので、実隆はいよいよ喜んだ。享禄二年に土佐狩野の画家に扇十本を描かしめて、これを太田庄に遣わしたというのも多分かく都合のよい荘園であったからだろうと思われる。
山城以西は上述のとおりであるが、以東の美濃・越前にも所領があった。越前の所領というは田野村にあるのであるが、その公用は千疋であったらしく、これも同じく滞納がちで、濃州の所領とともに文明十八年幕府に訴うるところがあったけれど、その効が見えず、ほとんど断念しておったのである。ところが明応元年になって宗祇の取次で千疋を送ってよこしたので、実隆はこれ「天の与えしところというべきものなり
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