」とて大いに悦んだ。永正二年[#「永正二年」は底本では「正二永年」]に納付のあった節も同断である。翌三年にもまた千疋送られた。それといっしょに朝倉の妻からの進物として、美絹一疋をもらったと見えているから、この田野村の公用の納入は主として朝倉の尽力によったものらしい。そこで実隆はさらに一歩を進めて、永正七年の春にはその年の分を前借したらしいが、それにもかかわらずその年末に相変らず千疋到来した。それ故に実隆も「もっとも大いなる幸なり」と日記にしるしてある。
美濃からの収入というは主なるはその国衙《こくが》料であって、これは直接に取り立てるのではなく、美濃の守護土岐氏の手を経由するものである。ただし土岐氏がみずからこれを取り扱うのではなく、その下に雑掌斎藤越後守というが見え、またその下に衣斐某という代官もあったらしい。ところがなかなかにこの国衙が納まらぬので文明十八年にこれを幕府に訴えたこと既述のとおりであるが、その時には有利な裁訴を得たけれど、土岐氏の方からして奉書遵行の請文を出さぬ。そこで例の中沢重種を催促にやった。この催促の使が頻繁に派遣されて、長享三年の春には一か月に三回くらいも出かけている。ただし濃州まで出張したのではなく、ちょうどこのころ近江征伐が再興されて、土岐も将軍の命に応じ江州阪本に出陣していたから、それへ談判に行ったのである。そもそも国衙公用の三条西家に納まらなかったこと、およそ三十年に及んだと、実隆の日記に見えるから、寛正年間からして不知行であったので、応仁の一乱のために無音になったのではない。約言すれば時効にかかるほど久しく放棄した財産なのである。ところが不思議にも催促の効能が見えて、長享三年の三月に三千疋だけ納入になった。実隆の喜悦一方ならず、「小分といえども先ず到来す、天の与えというべきか。千秋万歳祝著祝著」と記している。三千疋を小分というのは、今までの怠納を計算するとかなりの多額になっているからで、一か年の定額は千疋、盆暮に五百疋ずつというのがきまりであったらしい。長享三年の春からして、延徳三年の五月までおよそ二か年間に催促して取り得た総額は、二万疋以上に達し、延徳二年以前の分はこれで勘定がすんだとあるが、おそらくはあまりに古い未進をば、切りすててしまったのかも知れない。前にちょっと述べた通り長享二年からの催促には、ひととおりならぬ手数をつくしたもので、義尚将軍薨去につき土岐右京太夫が斎藤越後守を従えて四月入洛し、土岐は芬陀利花院《ふんだりげいん》に、斎藤越後守は東福寺に宿営すると、早速にまたたびたび催促の使者を差し向けた。延徳二年の秋には葉室家が義植将軍に昵近《じっきん》なのを利用し、葉室家に頼んで土岐への御奉書を出してもらった。翌年の秋に土岐がまた坂本の陣に戻ると、さらにそれへ使者を出した。葉室家からの手紙をも添えてやったこともある。しかして一方においてかく矢の催促をしたのみでなく、同時に種々と土岐や斎藤の機嫌をとった。三栖庄からして巨口細鱗の鱸がとれたとて進献になると、先ずその一尾を東福寺の斎藤のもとにやった。富松庄の代官が土産を持って来ると、すぐにその一部を土岐への音物《いんもつ》にした。斎藤にも柳樽《やなぎだる》に瓦器盛りの肴を添えて送ることもある。雉《きじ》に葱《ねぎ》を添えてやったこともある。鴈《がん》をやったこともある。太刀一腰の進物のこともあった。かかる関係からして延徳三年の二月末に、土岐が三条西家を尋ねたが、その時には主人の実隆が在宅であったけれど、折悪しく取次をすべき青侍がみな他行中であったので、土岐は来訪の旨を玄関でいい入れたまま、面会を得ずして帰ってしまった。美濃の土岐といえば、日本中に聞えた武家であるのに、実隆は取次の人がないというので、これに玄関払いを食わした。そのところちょっと当時の公卿が武家に対する態度が伺われる。しかしながら実隆ももちろん土岐を怒らすことをば好まなかったので、翌日すぐに使者を斎藤のもとへやって前日の土岐来訪の礼を述べ申しわけをした。そこで土岐も阪本に移ってから、三条西家に対しては疎略を存ぜぬ旨をいってよこしてある。
かくのごとくして国衙の徴収を成し遂げたので、その収入によりて、延徳元年の拝賀の費用をも弁じ、亡父公保の月忌、例会は都合あしく無沙汰にしたことも多くあったのに、この年はこれを執行し、また大工二人を呼んで家屋の小修繕をもやれば、旧借をも少々返却し、中沢や老官女以下の男女の召使の給金をも下渡し得たのである。しかしながら一年平均一万疋といえば、当時において少なからぬ大金である。それだけの大金を催促と少しばかりの音物とだけで、しかも三十年間不知行の後に、徴収し得たとは考えられない。実は別にもっと有効な方法を講じたのである。それはほかでもない、前回にもちょっと述べた武人に利益分配することである。長享三年二月久しぶりで三千疋を受領した条に、南昌庵という者が坂本の扇屋で、これを斎藤から受け取ったが、「この儀については重々子細等あり、記すこと能わず」としてある。延徳二年七月の条には、「斎藤越後契約の間事いささかこれをつかわす」とあって、そのとき受け取った千六百疋の中から、何ほどかを与えている。これらの記事によって斎藤と三条西家との関係を伺い知ることができるので、かかる消息が通っておればこそ、斎藤越後守も時によっては、立替えをもなし、また用脚が到着するとわざわざ使者をもって受取人派遣の督促をなし、あるいはわざわざ太刀金二百疋の折紙持参でやって来て、実隆に謁することもあったのである。しかるに明応五年美濃の喜田城陥落し、土岐九郎は切腹、左京太夫は没落したので、この国衙料もまた不知行となること三十年ばかり、大永四年に至り持明院の周旋によりて、また納入さるることになった。
美濃国からは、国衙公用のほかに、なお三条西家の収入があった。一に宝田寺役、これはだいたい西園寺家のもので、三分の一だけ実隆の方に入ったのである。第二は鷲巣の綿の年貢である。第三は苧《からむし》の関務である。この収入はもっぱら官女の給分等に充てたものらしく、年貢については文亀三年に三百疋の収入があったことを記しているのみで、定額がわからない。この苧の関務をばやはり斎藤氏の一族が取り扱っておったものと見えるが、美濃、坂本、京都の間をしばしば上下する金松四郎兵衛という者もまた周旋の労をとっておった。土岐の明応五年の没落を報じて来たのもまたこの男である。
以上のほか三条西家の所領としては尾張に福永保があると記してあるけれど、つまびらかなことは知れない。また近江の阪田郡加田庄、これはもと正親町三条家のもので、転じて実隆の領有に帰したのであるが、岩山美濃守政秀なるもの半済を掠《かす》め取ったので、これに交渉を重ねたことが見える。年貢としては明応五年に飯米三俵の収入があったほかに何もわからぬ。
最後に三条西家の収入として叙せねばならぬことは、苧の課役の一件である。三条西家が美濃の苧の関務を領し、丹波の苧代官とも関係があり、阪本からも苧の課役が運ばれ、また天王寺の苧商人からも収得するところあった。して見ると二条家と殿下渡領とでもって、菅笠の座からの運上を壟断《ろうだん》したように、三条西家は苧の売買からして課役をとる権利を有しておったので、必ずしもある一国に限った収入でなかったのかも知れぬ。しかして日記永正八年七月の条に天王寺商人からして、とても課役を納める力がないから、この上はじかに越後商人から徴収してもらいたいと申し出でているのによって考えると、その課役は便宜上買方なる阪本や天王寺の商人らからして納付の習慣となっていたのであろう。阪本からして取り立てた税については、阪本月輪院から送り来ったこともあり、また南林坊なるものが文明十六年堅田においてこれを沙汰したこともある。その時の年貢額は二百疋とあるが、これが平均額以上か以下かはわからぬ。明応五年正月からして阪本に苧課役を月俸にして沙汰をすることにしたと日記に見えているが、それ以前は年二回の徴収であったかも知れぬ。しかし苧の課役中で三条西家にとり最も収入の多かったのは、もちろん天王寺の座からして納入するものであった。天王寺の苧商人らは、越後からして荷物を取り寄せる時に船でもって若狭まで、次に若狭から近江を通さなければならなかった。ところが山門がその近江通過を要して課役でもかけたものと見え、苧商人から山門に対する苦情の出たことがある。また阪本の商人ら越後において青苧の盗買をし、課役を免《まぬか》れんとしたので、その荷物の差押えがあり、それには天王寺の商人の一人なる香取という者が関係しており、その香取が金策をして三条西家の屋根葺の費用を弁じたことが日記にある。かくのごとき越後産の苧が課役の基礎になっておったのであるからして、その越後の国が乱れると、天王寺商人らも身を全うして逃げ帰るが精一杯で、苧の買入れどころではなく、したがって苧の公事も納まらなくなる。時としては越後から積み出しが実際にあっても、抜荷の恐れのあることもあったが、幸いに着船地たる若州の守護は武田で、その被官人の粟屋という者は、実隆の妻の実家なる勧修寺尚顕の女を娶《めと》って、実隆とも別懇にしているので、苧船が着くと早速にこれを留め置いて三条西家に報告してくれた。苧船の隻数は時々不同であるが、日記に見えるところでは、十一隻というのが最も多い。苧の課役の納期は年二回で五月と十月とであったろうと思われるのは、五月に受領しているのが、日記にたびたび見えるし、また延徳三年十二月の条に、次の年から十月中に究済せぬ時には利息を取り立てると苧商人らに申渡した記事があるからだ。しかしながらこの威嚇は効をなさなかったらしい。貢税額はハッキリわからぬ。明応七年五月の春成公用は二千疋とあるが、五年十二月の条には千二百疋とある。商人香取のことは前にちょっと述べたが、そのほかには日記には北林弥六という者苧商人雑掌と記されてある。こちらが苧商人の代表者であったかも知れぬ。この北林もまた時々実隆のために借金の周旋をしてやっている。
実隆は大略以上のごとき収入をもって暮らしを立てておったのであるが、しからばかかる楽屋を有する彼の公生活は如何であったろうか。次においてこれを述べることにしよう。
上文に述べたような楽屋を有する三条西実隆に、もし衣冠束帯をさしたならばどんな者になるであろうか。これがこれからして予の描こうとするところである。
そもそも実隆というのは、彼の最初からしての名ではない。第一につけられた名は、公世というのであって、その公世時代、すなわち長禄二年の末に、四歳にして従五位下に叙せられた。これがいわゆる叙爵なるものであって、その遅速がすなわち家柄の高下を示すところから、公家にとっては重大な事になっている。叙爵と同時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母を喪《うしな》ったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭《くろうどのかみ》に進み、位は正四位に陞
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング