東山時代における一縉紳の生活
原勝郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)被《おお》わんと

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|縉紳《しんしん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)物※[#「總のつくり」、「怱」の正字、356−上−15]《ぶっそう》
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 予がここに東山時代における一|縉紳《しんしん》の生活を叙せんとするのは、その縉紳の生涯を伝えることを、主なる目的としてのことではない。また代表的な縉紳を見出すことが至って困難であって見れば、一人の生活を叙して、それでもって縉紳階級の全部を被《おお》わんとするの無理なることは明白だ。しかしながら予の庶幾《しょき》するところは、その階級に属する一員の生活の叙述によりて、三隅ともに挙げ得るまでには行かないでも、せめてこれによって縉紳界の一半位をば想知することを得せしめ、もしなおその上にでき得べくんば、当時の文明の源泉なる京都における社会生活の一面を、これをして語らしめようというにある。しかしながら叙述の出発点を個人にのみとり、それから拡充して社会を説明しようとするのは、企てとしてはなはだ困難である。ここにおいて予は便宜上この論文を二段に分ち、その第一段には、性質上結論であるべきはずの東山時代に関する予の意見を、先ず一通り縷述《るじゅつ》しよう。しかして第二段に至って或る一縉紳の生活を叙してみたい。結論の性質のものを前にするのは、冠履顛倒のやり方で事実を基礎として立つべき歴史家の任務を忘却したわけになるようであるけれど、一縉紳の生活をいかに綿密に叙述したとて、それのみで、時代の大勢を推し尽くすことは、とうてい不可能であって見れば、予の第一段は必ずしも第二段の結論ではなくむしろ序論の性質を帯びたものである。これを第一段として先ず説くのは、第二段において叙せらるべき一縉紳の生活の背景を画かんがためである。しかして第二段においてなすべき叙述をば、たんにこれをして如上の背景を利用せしむるのみでなく、第一段の概括的評論と相反映し、少なくもその一部分だけでも立証させたいものだと思う。読者あるいはこの論文をもって帰納によらざる空論なりとし、あるいは帰納と見せかけた演繹《えんえき》論だと評するかも知れぬが、予はひたすらに帰納をくりかえすことをもって史家の任務の第一義だとは考えておらぬのであるから、かかる批評はあまり苦にならぬ。手品だと評せられるならば、それでも甘受しよう。ただ恐るるところは拙い手品の不成功に終りそうであることのみである。先ず第一段から始めよう。因《ちなみ》に述べておくが予はかつて『芸文』第三年第十一号に、「足利時代を論ず」と題する一篇を掲げたことがある。東山時代は足利時代の中軸であるからして、本篇とそれと、大体の帰趣において重複を免れない。しかしながらかつて論じたのは東山時代を主として睨《にら》んだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。

 鎌倉幕府の開設は、たんに政柄の把握者を替えたのみではない。政庁の所在地を移したのみでもない。これと同時に日本の文明が従来の径路と違った方向をとりかけたという点において、歴史上重大な意義を有するのだ。行き詰った藤原時代の文明はかくして新生面を開こうというのであったのだが、しかるにその文明の方向転換は鎌倉幕府の衰滅とともに失敗におわり、将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。復古といわば、復古ともいわれよう。さて何故に鎌倉時代の初期にあらわれた彼の新気運が、そもそも頓挫してこの始末になったかということについては、けだし種々の原因もあろうが、主因としては、従来の文明の根柢がすこぶる堅く、これを動かして方向を転ぜしめることの容易でなかった点にある。従来藤原時代の文明に関しては種々な説が史家の間に闘わされてあったので、当時の文明は決して輸入分子を主としたのではない、付焼刃の文明ではない、日本を本位にしたその基礎の上に支那文明の長所のみを採り加えたのだと主張する論者もある。この論はわれわれの祖先の名誉を発揮する所以のものであるからして、それがもしはたして真を得ている論であるならば、これに優る結構なことはないのである。しかしながら退いて考えると多少ショウヴィニズムの臭がある。この種の論者の論拠とするところは、大宝の律令をもって唐の律令に対照し、その全部が彼の模倣でなく、所々にわが国情に適するごとき修正を加えているという点を力説するにあるのであるが、これははなはだ強くない論であるので、全然彼を模倣してはおらぬと言うだけでは、輸入分子を主としておらぬという証明にはならぬ。もし当時の日本の指導者が、行き届いた細心をもって取捨を行ない、己を主として然る後に彼に採るところがあったとすれば、換言すれば彼らのやり方が進歩的保守主義であったとすれば、藤原時代の文明というものは、決して然るがごとく早く行き詰まるはずのないものである。予の見るところではどうしても彼を本にしてこれに若干の修正を加えたと考えるほかはない。
 すでに彼を主にしたといえば、次に起こってくる問題は、そのこれを輸入した当時の彼国の文明の如何なるものであったかというまでに及ぶのであるが、隋唐の文明はこれを輸入した当時のわが国のナイーヴなのに比べて、宵壌《しょうじょう》の差ある優秀のものであった。隋はともかくとしても、唐にいたっては、その文明が支那においてすら行き詰まるほど発達してしまった時である。かくのごとき高度に達した一種の文明は、これをいっそう進歩した国に移植したとて格別の累をばなさず、かえって進歩を助けるのであるけれども、これをはるかに彼に劣った当時の日本に移植したのであるからして、日本でもいくばくもなく行き詰まるべき運命を持っていたのだ。日本は幸いにして、これを齟嚼《そしゃく》するのに反芻《はんすう》作用をもってしたので、はなはだしい害をば受けずにすんだのであるけれども、もしそれがなかったならば、日本も朝鮮のようになったにきまっている。だいたいにおいては一旦行き詰まりかけたに相違ないのである。しかしてこの行き詰まりを切り開いたのはすなわち鎌倉幕府の建設である。いわゆる窮してまさに通ぜんとしたものだ。それが十分に通じかね転じかねたのは、輸入された方があまりに優勢であったからであって、たとえてみれば一河まさに氾濫せんとし、幸いに支流の注入によってしばらく流路を転ぜんとする勢いを示すも、原流のあまりに水勢強きがために、ついに大いに流路を転ずることあたわずして終るがごときものである。要するに幕府が鎌倉からして京都に移されるとともに、せっかく鎌倉に出来かけた新しい文明の気運はここに萎靡《いび》し果てて京都のみがまた旧のごとく文明の唯一中心となるに至った。しからばその京都はどんな有様であったか。
 奈良朝以前から輸入されきたった文明は、平安奠都によって京都において涵養《かんよう》され、爛熟し、しかして行き詰まったのであるが、さてこの文明とともに終始すべき運命の京都も、またその文明の行き詰まりとともに行き詰まった。時代の推移に従う多少の変化を容《い》るる余地がまったくなくなったというでは無論ないけれど、その大体において京都はすでに都会として出来上がってしまった。根本的の変更をなすことのとうてい不可能なほどに出来上がってしまった。本邦には珍しい、むしろ支那式ともいうべき都市生活が発達してしまった。かかる高度の文明を具体した京都は、将軍の幕府が鎌倉から引き移って来たからとて、それがために鎌倉式に成るものではない。その鎌倉すらも実は末になるにしたがって、だんだん京都風になりかけておったのであるからして京都が今度そのかわりに征夷将軍牙営の地となったからとて、その故に京都の趣が大いに替わるということのあるべきはずがなく、かえりて反対に将軍が鎌倉時代よりもいっそう公卿化したのである。しからば足利時代の京都は全然藤原時代と同様な有様に逆戻りしたのか。
 余は前文において京都は鎌倉に打ち勝った、武家政治は終に旧文明の根本的性質を変更することができなかったと述べた。然り、根本的には変革を来たし得なかった、しかしながらまったく何らの影響をも及ぼし得なかったというのではない。予は元来足利時代をもって大体において藤原時代の復旧と見なさんと欲する者であって、もし藤原時代を日本の古典的時代と考え得るならば、足利時代はルネッサンスに擬せらるべきものであると思う。ただそれと同時に忘るべからざることは、彼のルネッサンスが決して古典時代そのままの再現ではないごとくに、足利時代もまた決して藤原時代そのままの復旧ではないということである。鎌倉時代はおおよそ一百五十年の久しきにわたりており藤原時代と足利時代とは時間においてそれだけの隔《へだた》りがある以上、仮りに武家政治というものが開設せられなかったにもせよ、その他何らレジームを攪乱するごとき事件がその間に出来《しゅったい》[#「出来《しゅったい》」は底本では「出来《ゅしったい》」]しなかったにせよ、藤原時代の有様が、そのままに引いて足利時代まで伝わるべきものではなく、外部からの影響がなくても、内面的変化を免るることのできるはずはない。しかしてあくまでも従来の傾向を続け、爛熟の上にも爛熟することがとうていできぬことであるとすれば、その行き詰まった末には遂に頽廃期に入るべきものである。しかしながら足利時代において認め得べき変化は単にこの種のもののみではない。換言すれば鎌倉幕府は失敗に終ったとはいいながら、武家政治がともかく一たび開設せられたということは、まったく歴史に影響を及ぼさずにはいられぬ重大なことであって、足利時代というものは、ある意味における武家政治の継続になる、公卿化したとはいいながら、将軍およびその臣隷は武人に相違ない。もし承久の事変に宮方が勝利を得たと仮定しても、それは足利将軍が京都から号令した有様と異ったものでなければならぬのであるが、いわんや藤原時代にいたっては、承久時代ともまた大いに相違があるからして、足利時代は決して藤原時代そのままの再現であり得ぬのである。要するに足利時代は武人化したる藤原時代ともいえる、復古とはいいながら中間に挾まった鎌倉武家政治の影響を少なからず受けている。さてそれならば、武人化するというのはいかなる意味か。およそ武人化したという義の中には、世の中において武力によって決せられる場合の多くなって来て、事実上の執政者の間に尚武の気象が旺盛になったという点もある。足利義尚の六角征伐のごときは、藤氏全盛時代の公達《きんだち》には見られぬ現象であって、この見地からするも両時代の差を分明に示すものであろう。しかしながらこのほかにも武人化なる語に尚別の意義がある。
 元来藤原時代の文明はすこぶる階級的な文明であった。この文明の下に庶民もいくらかの進歩をなし得たことはもちろんであるけれど、それはいずれの階級的文明にもあることで、この文明の浸潤がある故をもって、藤原時代の文明がかなりに庶民をも眼中に置いたもので、すなわち階級的なるに甘んじた文明ではないというのはこれ少しくいい過ぎた論である。そもそも庶民を眼中に置いたか否かが階級的であるないの標準となるものではなく、上流社会が庶民を自分らとははるかに隔った徒輩と目して、もってこれを眼中に置くということがそれがすなわち立派な階級的精神である。さてその階級的であった状態からして、次第に平等の域に向って移り行くのには、かの慈悲とか憐愍とかいうように、己を先ず一段高き地位に標置して、それから下に向って施すところのその厚意に基くことははなはだ稀であって、多くは上流者が下級者の己に接近するのを認容することによって実現されるのだ。し
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