かしてかかる厚意は稀に自発的に発することもないとは限るまいけれど、多くの場合においてはむしろ強請によってやむを得ず表現せざるを得ぬ事情に立ち至るのである。しからばかかる強請が時と場合とを択ばずに行ない得るものであるかというに、それは決してそうでない。強請といえば少々語弊があるが、要するに請求してよいだけの資格が生じて、しかる後にした請求でなければ、真にその欲するところを貫徹することができぬ。換言すれば階級精神を打破するか、あるいはその衰微を促すのには、下層人民が進歩し、向上し、その属する国家社会において己らがいかに重要なる分子を構成しているかを自覚することが最も必要である。喜んで上流よりする仁愛を仰ぎつつある間は、とうてい階級精神の打破はできぬものである。藤原時代においては最下層の者はもちろん、それよりもなお一段上に在る中流階級すらも、みな文明の上において所動者であって、概括すれば社会は階級上三というよりもむしろ二に大別され、藤原氏の一部および少数の異姓者が上流を組織し、もって武士以下の下級者に臨んだものだ。武士らは中流社会というよりも、むしろ下級中の上層に位すというべきものであった。その証拠には現に彼らの多数は、保元の頃まで藤原氏に臣事しつつあったのである。平氏が政権を握るに至ったのはこの下級中の上層に在った一族が跳びこえて上流の仲間入りをしたのであるが、しかしその目的を達するに至った手段は、平氏の本職たる武力によったのではなく、むしろ藤原氏中の一族が久しき沈淪から脱出して栄達したというような有様で、要するに宮臣的のやり方が、あずかりて大いに力をなしている。であるからして平氏中の特別な一族が立身したからとて、これにつれて平氏一門が栄達したというわけでもなく、また武士たる者の社会的地位が総体に向上したというわけでもない。武士という者が相胥《あいもち》いてその位置を高め、社会の表面に現われるようになったのは、武力によって、詳言すれば一個人の勇気ではなく多数武人の集合したる武力によりて、鎌倉の幕府が開かれてからの、その以後のことである。予が上文において武人化したというのはすなわちかくのごとき推移をさすので、階級的精神がこれによりてまったく打破されたというのではないけれども、ともかくかくのごとくして中流階級が出来たといおうか、もしくは上流階級が多人数になり、しかも単純なる一種に限らず、廷臣のほかに武人という分子をもその中に算するに至ったという有様になったのが、これすなわち階級精神を弱むる一因たるに相違ないので、つまりその打破に向って一歩を進めたものである。しかしてこの傾向は承久の役の鎌倉の勝利および建武中興の不成功によりて、いよいよ跡戻りし難い大勢となった。武人化は常に階級制度の衰微に伴うものとはいえないけれども、この場合においてはたしかに民主主義に一歩を進めたものなのである。しかして足利時代というものは、実にこの大勢の成した結果だとすれば、たといその文明の本質において大いに復古的の点があるにもせよ、これを藤原時代に比して顕著なる差異のあるものと考えざるを得ない。
第三に足利時代のその既往に比して異り、したがいて藤原時代と大いに同じからざる点は、文明の伝播力の強弱の差である。足利時代において日本の文明の分布が、前時代に比し、すこぶる普遍平均の度を加えたのは、これ一には当時における文化なるものが、藤原時代において上流社会の壟断《ろうだん》するところとなっておった文明に比べて、その典雅の度を減じて通俗になり、卑近になり、必ずしも上流者流の間にのみ限らなければならぬ底《てい》のものでなくなったことに基づくとはいいながら、なおそのほかに伝播力が藤原時代に比して大いに増加したということも、そのまた有力な一原因をなしている。そもそも文明の伝播なるものは、ある意味において伝染病と同様であって、同じ伝染病でも時と場合によって、伝染性の強弱一様でないごとくに、本質を同じくする文明でも、時代によってその波及力に差等がある。本質と伝播力とは必ずしも並行するものではない。しからばこの伝播力が何からして最も有力なる衝動を受けるかというに、それはすなわち政治である。政治は文化の一要素をなすのみでなくあわせてこれを波及せしむる原動力をなすものである。藤原時代においては、その文明の品位がいかに優秀であったにせよ、その制度がいかに整然たるものであったにせよ、その政治の実施に必要な統治力が微弱であったため、大いに伝播すべきはずでありながら、しかもその伝播ははなはだ遅々たるものであった。あたかも道路の予定線の網のみが系統的に整備しておって、しかしてその線をたどる通行人の極めて寥々《りょうりょう》たるがごときものである。しかして何故に統治力が微弱であったかというに、その原因は主として非尚武的な支那文明を過度に採用したからである。支那人が人種として尚武的であるか、あるいは非尚武的であるかは、しばしば論議せらるることであるが、これは今予の論ぜんと欲する点ではない。のみならず仮りに支那人をもって、本来の非尚武的人民ではないとしたところで、およそ民族の尚武的分子というものは、その文明の爛熟とともに次第に比較的減少をなすものであるからして、支那文明の絶盛期である唐代に、尚武的色彩があまり濃厚でないのは、これはなはだしく怪しむに足らぬ。しかしながら文明の燦然たる盛唐ですらも、予は尚武的分子の減退の程度はなはだしきに過ぎたと思う。ましてそれよりも未開の程度にある当時の日本が彼の系統的なのを喜んで、その本質をそのままに輸入し、日本が支那よりもさらに深く尚武的要素の必要を感ずるものだということに思い至らなかったのは、これすなわち政治の統治力の足らなかった有力なる原因であると考える。血液そのものの成分には欠点が少なくとも、日本の血管に文明の血の循環が十分でなかったのはその故主としてここに存せなければならぬ。
鎌倉時代の文明は藤原時代の継続で、多少デカダンに陥りていこそすれ、古典的なる品質において向上しているとはいい難い、しかれども武力を基とした、新政治は、その系統的制度としての価値こそ前時代に劣る観があるとはいえ、溌溂たる活力をそなえたもので、したがって、その文明の伝播力に与えた衝動は、前代におけるがごとく微弱な者ではなかった。もし鎌倉幕府が今少し長く持続し得たならば、日本の文明はおそらくもっと早く進歩したであろう。しかしながらたといさほど長く持ちこたえなかったにもせよ、この新政治が与えた衝動の決していたずらに終らなかったことは争われない。しかして足利時代はその後を承けたものである。将軍が、公卿化して京都におっても、政治は武家政治に相違なく、その与うる衝動力は藤原時代よりもむしろ旺盛であった。そればかりでなく、武家政治の本拠が文明の源泉である京都にあったということが、鎌倉時代すなわち幕府の京都になかった時代よりも、むしろ京都文明の伝播に好都合であった。ここにおいて足利時代の京都文明は古典的見地からしていえば鎌倉時代のそれよりもさらにデカダンの趣を加えているのにかかわらず、日本全体の文明はその尚武的分子の加わったために、藤原時代そのままの復活にはならぬと同時にかえって新しき光彩を発揮したのである。都鄙の交渉の頻繁なるがごときは、まさにもってこの伝播の盛んなのを徴すべき有力なる証拠といえるだろう。
かくいわばあるいは異論が起こるかも知れぬ。鎌倉時代はその論でよろしいとしても足利時代は乱世であるではないか。その文明にはあるいは藤原時代になかった伝播力が具わっているにもせよ、群雄は各地に割拠《かっきょ》し盗賊は所在に横行し、旅行の安全を害しつつあったではないか。しかして交通安全でなければ、いかなる文明も遠隔の地に波及すること至難ではあるまいか。伝播力があっても、壅塞《ようそく》の方が強くして、伝播の事実が現われ難いだろう云々。この説は一応もっともではあるが、実は考察の未だ至らぬ点がある。なぜかというに藤原時代に文明の波及が遅々としておったのは、一はその伝播力の強からざるにもよるが、また一には伝播に対する自然の障碍《しょうがい》の未だ除かれざるものが数多あったに坐する。しかしてこれらの自然的障礙は、鎌倉時代から足利時代にかけて次第に打ち勝たれ取り除けられた。これは交通を易《やす》からしめ、したがって文明の伝播に資したこと少なくない。文明の伝播に最も必要なる書籍の足利時代に入ってから頻繁に刊行されたということも伝播を促す原因を成すと同時に、伝播の可能である形勢を前提として始めて起こり来るべきことである。小人数の仲間にのみ行なわれ、一局地以外に伝播する見込みのない時代にたとい木版とはいいながらも、とにかく書籍の刊行がしばしば行なわれるはずがなかろう。まだ以上のほかに足利時代の交通を論ずるにあって忘れてはならぬことは、当時の交通は陸よりも海を主としたということである。徳川時代からして以来陸上の交通が安全になり便利になったその状態に馴致《じゅんち》し、その旅行に際しては、主として鉄道によりて海路を避け、やむを得ず乗船するとしても、いわゆる聯絡航路なるものを採って、なるべく乗船時間を短縮せんとする現在の日本人は、徳川時代以前の交通に関してややもすれば誤れる考えに陥りやすく、当時の田舎人が京都に往来するには専ら陸路により、あたかも徳川時代の関西と江戸との間の往来が五十三次を伝わったごとくに、つねに長亭短亭を一々に経過しつつ旅行したものの様に考えむとする。換言すれば五畿七道という建制順序に過重の意義を付し、京都からして東海、東山、北陸、山陰、山陽の五道に進発するのには、国尽くしに挙げてあるような順序で国々を通り貫いたものと合点したがる。かように考えれば、なるほど東山時代に交通の障碍が到る処に横わり、いかに強い力のある文明でも伝播ができず、日本の大部分が暗黒に想像されるのも無理はない。しかしながらかく想像したのでは、大内家と京都との関係のごときはまったく説明のできぬことになる。船舶というものの広く用いられなかったその昔のことならばいざ知らず、いやしくも航海の相応に行なわれるようになった以後の時代においては、日本のような環海の国にあって、交通が専ら陸路にのみ便《たよ》るというわけのあろうはずがない、海に風浪の難があるというかも知れぬけれど、陸上にも天然の困難がないでもない。兵庫なるもののかつて用いられたことのない日本において、坦々たる大道の存在を足利時代以前に想像することは不可能であるからして、狭隘と峻険とは共にしばしば旅客の忍ばねばならぬ苦痛であったろう。また陸には覆没の憂いがないにしても、旅舎の設備の不完全は、海上の旅行者の嘗《な》めずにすむところの欠乏であった。海には海賊の禍があるとするも、陸上とても群盗所在に出没した。この点においては海陸ほとんど択ぶところがない。されば乱世のために陸路が往々|梗塞《こうそく》を免れなかったとしたところで、海というもののある以上、足利時代の交通がはなはだしく阻礙《そがい》されたと考えるのは、少しく早計ではあるまいか。いわんや陸上の危険においてすら、足利時代必ずしも藤原時代よりもはなはだしかったとは、にわかに断言し難いことを考えると、われわれは強いて足利時代における文明の伝播を否定するにも当らぬことになる。
論者は往々にして足利時代殊に応仁以後の群雄割拠の状態から概論して、これを乱世だという。また群盗の横行に徴してこれを秩序|紊乱《びんらん》の時代だとする。足利時代はその太平|恬熈《てんき》の点において、むろん徳川時代に匹儔《ひっちゅう》し得べきものではないが、しかしはたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とは
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