ならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。換言すればかかる記事の増加をもって、文明の進歩の表徴だと考え得ぬこともあるまい。なおその上に足利時代の方がかえりてそれ以前の時代よりも、群盗横行の害少なかったろうと思われる他の理由もある。群雄の割拠がすなわちそれである。
群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。中央政府の勢力が広く波及したようでも、その把握力が極めて脆弱《ぜいじゃく》なものでなかったろうか、中枢がただ一つであったということは、必ずしもその中枢の集中力の強大を意味するものではない。のみならず悲観論者は、群雄割拠になると、その群雄の各々の領内には数多の群盗が横行して、その秩序はいやが上に乱脈になると想像するらしいが、これが果して肯綮《こうけい》にあたった想像であろうか。もしこの想像が正鵠《せいこう》を得るものとすれば、ローマ帝国時代よりも、近世国家の樹立以後における欧洲の秩序が、一層紊乱しておらなければならぬ。はたしてそうであろうか。余の意見はこれと反対だ。群雄は国を盗む梟師《たける》である。鈎を盗む小賊が到る処に出没するよりも、彼らの若干を制馭する有力者すなわち群雄が現われて、割拠の形勢を成すということは、まさにより大なる統一を致さんとする前において、先ず小なる数個の統一をなすものであって、換言すれば集中作用の大いに発動しかける端緒である。余は群雄の崛起《くっき》をもってむしろ小盗の屏息を促すものだと考える。かく考えきたれば応仁以後の群雄割拠時代が、必ずしも藤原時代より無秩序で交通の危険が多かったと断言することがむつかしくなるではないか。
藤原時代と比較することをば、先ずこのくらいにしておこうが、次には足利時代に時代相当の交通の不便と危険とを認めた上に、さてそれらの不便や危険等が相当の人々からいかに感受されたか、換言すればこれらの故障がいかなる程度まで交通を阻碍したかを論じてみよう。それについて第一に弁じなければならぬのは当時のいわゆる乱世なる状態が、いくばくの不安の念を起こさしめたかについてである。たんに不安といえば、大疾患もその一であるけれど、蚤の食うのもまた不安である。安逸と奉養とに事欠かぬ今日の人は、些細なる市井の出来事にも驚いて、はなはだしく不安を感じやすいのであるけれどもこの感じ方は、現今においてすら国によりて差等あるごとくに、同一国においては時代による差等があるに相違ない。予といえども、足利時代をもって人々が大いに楽観した時代だとは考えておらぬけれど、さりとて余は徳川時代の歴史家、およびその説を踏襲する今日の一部歴史家の考うるごとくに、足利時代殊に応仁以後において、都鄙の人心が戦乱のために朝夕|旦暮《たんぼ》恟々《きょうきょう》として何事も手につかず、すべて絶望の状態にあったとは信じ得ない。道路の不便と交通の危険とのために、ほとんど旅行を断念したものだとは想像し得ない。海外との交通が、いわゆる乱世になってからして、かえって盛んになったのみならず、日本人の手が蝦夷島に伸びて、そこに恒久的根拠を有するに至ったのも、実にこの時代からの事である。五畿七道とてもまた同じことだ。数多の中枢が海運によって聯絡されてあったばかりでなく、陸上にも諸種の用向を帯びた旅客が絶えず徘徊しつつあった。しかしてその往来に必ずしも護衛を付するという次第でもなかった。かの宗祇およびその流れを汲む連歌師らは、鎮西から奥州まで、六十六国を股にかけ、絶えず旅行のしどおしであった。しかるに彼らの日記には、旅行危険に遭遇した記事が多くない。想像するほどに交通が杜絶しなかったことは、それによっても明瞭である。のみならず、不安の状態にも種々あって、全国に善く行き渡ることもあれば、あるいはまた一地方に局限されることもある。もし足利時代の不安が日本のある一部に限られておったものならば、その部分と他地方との連絡の、あるいはしばらく遮断せらるることがあるだろう。しかしながらこれに反して京都を始めとして六十六国ほとんど同じような不安の状態にある足利時代のごときにおいては、どこがまったく安心だというべき場所がないのであるから、不安の点において全国均一に近い。この均一の状態に近づいたという点は、すなわち文明の波及の行き届く下地になるので、この点において足利時代は、鎌倉時代および藤原時代にまさっており、この均一が基礎をなしたればこそ、徳川時代の大統一ができたのだ。
論文の前半を終るに臨みて最後に付け加えておきたいことは、旅行と不安の念との一般の関係である。商売その他利益を得ることを目的とする旅行においては、その利益のために相当な危険を冒すことは、多数の辞せざるところだ。したがって大なる利益を獲得する望みがある場合には、大なる危険をも意とせぬことしばしばである。しからば獲利を主眼としない、たとえば快楽のための旅行はどうであるかというに、これとても不安の状態のために全然妨止せらるるものとはいい難い。否、多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具|全《まった》からざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。一つ卑近な例をとってこれを説明しよう。わが国で数年前に茶代廃止運動というものがあった。この運動の目的は、旅行者のために無益の費用を節減すると同時に、置くべき茶代の額を見計らいする心配を除こうというにあったのだが、この心配を除くのがすなわち不安排除だ。ちょっと考えると誠に結構な運動のようであるが、この運動は一時多少景気づいたけれども、間もなく廃《す》たれてしまって、今日このごろでは茶代廃止旅館などという看板を出しておく宿屋はほとんどなくなった。しからば何故にこの美挙が失敗に終ったかというに旅客が浪費を好むからだというわけではない。他にもいろいろ原因があろうけれど、主として不安の念を勦絶《そうぜつ》しようといういらぬ世話が旅客に好まれぬからだ。この茶代の見計らいのごときは、不安の中でも最も危険の少ないものであるから、どうでもよいようなことであるが、そもそも不安の念というものは、元来旅行にとりて嫌うべきものでないのみならず、かえってある程度まで歓迎すべきもので、中には主としてこの不安を欲するがために旅行を企つることもあるくらいだ。いわゆる冒険旅行のごときすなわちそれである。また冒険というまでには達せずとも、秩序の定まっておらぬ国を旅行して興味を感ずるのは、すなわち同一の理に基くものである。今日の支那は戦乱のない時ですらも、決して秩序の定まった国とはいえない。しかるに支那の旅行において、日本の旅行で得られない興味を感ずるのは、決して旅行者に対する設備が具わっているからでなくして、つまりその秩序が十分に立っておらぬからで、旅客をして多少不安の念を起さしめるからだ。日本の足利時代は今の支那だ。現在の日本を旅行しても感じ難い興味をば、足利時代の旅行において感ずることができたに相違ない。これを要するに足利時代のいわゆる乱世であるということが必ずしも交通の阻碍とのみ見るべきものではなくして、かえりてこれに刺戟を与えて発見を促した点もあることは、足利時代の事物を観察するに際しての忘るべからざる鎖鑰《さやく》であろう。
約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。もしはたして然りとすれば、イタリアを除外してルネッサンスを論ずることのできぬと同様に東山時代の京都の文化の説明ができれば、それでもって同時代における日本の文化の大半を説明しおわるものとなすべきである。しかして当時の京都の文化が、その本質において縉紳の文化であるとすれば、京都に在って、文壇の泰斗と仰がれておった一縉紳の生活を叙述することは、日本文化史の一節として決して無用のことであるまい。しからばその叙述の対照たるべき縉紳として次に選択された者は何人《なんぴと》か。三条西実隆《さんじょうにしさねたか》まさにその人である。
三条西実隆の生活を叙するに当って、第一に必要なのはその系図調べである。三条西家が正親町《おおぎまち》三条の庶流で、その正親町三条がまた三条宗家に発して庶流になるのであるから、実隆の生家は非常に貴いというほどでなく、父なる公保は正親町三条から入って西家を嗣いだためか内大臣まで歴進したけれど、養祖父実清の官歴はさまでに貴くなかった。養曾祖父とても同様である。しかして槐位まで達し得たかの公保すらも、その在職極めて短くして辞退に及んだ。これは家格不相応の昇進をなした場合によくあることである。つまり今日いわゆる名誉進級という格だ。また実隆の親類を見渡すにあまりに高貴な家は少ない。母は甘露寺家の出で房長の娘親長の姉である。妻は勧修寺教秀の女で、実隆の子公条の妻もまた甘露寺家から嫁入りをしている。要するにその一族の多くは、今の堂上華族中の伯爵級なのである。それらからして考えれば、実隆の生家というものは、公卿の中で中の上か上の下に位すべき家筋であるのであって、この家柄のよいほどであるという点は、すなわち実隆をもって当時の公家の代表者として、その生活を叙すると、それによって上流の公家の様子をも窺い、あわせて下級の堂上の状態をも知らしめることができる所以なのである。もし当時において誰か一人の公家を捉えてこれを叙するとすれば、実隆のごときはけだし最もよき標本であろう。のみならずかかる叙述をなすにあたっては、なるべく関係史料の豊富な人を択ぶ必要があるのに、幸いに実隆にはその認《したた》めた日記があって今日までも大部分は保存されてあり、足利時代の公家の日記としては、最も長き歳月にわたり、かつその中にある記事の種類においても最も豊富なものの随一であるという便がある。当人の日記がすでにかようの次第である上に、なおこれを補うべき史料としては、実隆の実母の弟甘露寺親長の日記もあり、また実隆の烏帽子子《えぼしご》であった山科言継《やましなことつぐ》の日記もある。相当に交際のあった坊城和長の日記もある。また公家日記以外にも、その文学上の関係からして、実隆についての記事は、連歌師の歌集やら日記等に散見していること少なくない。かかる事情は研究者に多く便宜を与うるものであり、したがって予をして主題として実隆を選択せしめた重《おも》なる理由の一つになるのだ。しからばそれら史料の利用によらば、実隆その人が目前に見えるように理解され得るのかというに、なかなかそうはゆかぬ、はがゆい事はなはだしい。しかし十分ならぬ史料からして生きた人間を元のままに再現することは、化学的成分の精密に知れている有機物を
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