、人工で以て作り上げるよりも、さらにむずかしいこと勿論の話であるからして、その辺は読者の諒察を仰ぐ。
三条西実隆は康正元年に生れ、天文六年八十三歳をもって薨じ、その日記も文明六年すなわちその二十歳の時からして、天文四年すなわちその八十一歳の時に至るまで、六十一年間のことを書きとめてある。一身でかく久しい間浮世の転変を味わったのであるが、およそ六十年といえば、その前と後とでは、世態も人情も少しならず変遷すべきであるからして、その移りゆきつつあった世の中に処した実隆の生活も、また随分と変わったに相違ない。けれどもその変遷の刹那刹那を活動写真のように描き出すことは不可能であるからして、便宜のために実隆の生活を三方面に分って記述することにしよう。第一はその家庭における私生活、第二は廷臣としての公生活、第三は文学者としての生活である。しかしてこれらを叙する前に、応仁一乱以後の京都の有様について先ず一言することにしよう。
最初からしてあまり太平とは評し難かった足利の天下は、応仁の一乱を終って乱離いよいよはなはだしくなった。そこで当時の人々ですら、この兵乱をもって歴史上の大なる段落とし、一乱以前あるいは一乱以後という語をしばしば用いている。そもそも応仁の乱というものは、輦轂《れんこく》の下、将軍の御膝元での兵乱としては、いかに足利時代にしても、まことに稀有の大乱で、これを眼前に置きながら制馭《せいぎょ》し得なかった将軍の無能は、ここに遺憾なく曝露され、それまでにすでに横暴をやりかけておった地方の守護およびその他の豪族は、ますますその我儘に募り出したとはいうものの、応仁の乱は、足利時代史において珍しい性質の兵乱とはいえない。応永・嘉吉にあった騒動をただ一層大袈裟にやったまでのことに過ぎぬ。したがって応仁の乱は乱離の傾向に加速度を与えたには相違ないけれど、太平な世の中がにわかにこれがためにどうこうなったのでは決してない。本をただせば応仁以前の状態が、すでに永続し難い無理な状態なのだ。武家政治創始以来さなきだに不都合な荘園制度が、ますます不都合なものとなり、最初段別五升を収めるかわりに、荘園内の警察事務を行なっておった地頭なるものは、後には地頭職という名の下に、その収入のみをも意味することとなり、その職務の方は地頭代がこれを行なうこと一般の例となった。あるいは全くこれを行なう者がなくなった場合もあろう。地頭の名義人が女でも小児でも、さては僧侶でも差支えないということになったのであるから見れば、あまり確実に職務が行なわれたらしくもないのである。建武中興から始まったいわゆる南北朝の争いは、ちょうどこの荘園の有様が移りゆきつつあった、その過渡の最中に起った出来事であって、絶えざるその兵乱のために、無意味な地頭の増加は、あるいは一時食い止められたのであろうけれども、南北合体とともにまた最初の傾向どおりに大勢は動き出したのである。さてこうなると、最初からして責任なくして権利のみあった本所や領家はもちろんのこと、地頭ですらも全く無責任のものとなり、荘園内に善意の有力者がある場合をば別として、さもなければ全く無秩序の状態に陥ることとなったのだ。かような有様が永続されては、本所や領家や地頭名義人にはよいかも知れぬけれど、日本のためにはこの上ない災難である。本所や領家は、最初鎌倉からして地頭を置かれた時には大いに憤慨し、何とかして侵害された権利を恢復しようと焦慮したのであるけれども、承久・建武の経験をした後は、もはやあきらめをつけ、この上は武家と争うことを止めるのみならず、反対に武家の勢力を利用して、もってまだ手許に残って失われずにある権利だけを繋ぎ留めようとした。まことに思い切りのよい賢い分別である。しかしながらそれでもなお無責任者の手に莫大なる権利を残しているのであるからして、日本の健全なる発達のためには、荘園制度をばどうにかして顛覆する必要があり、実際に大勢はその打破に向って進みつつあったのだ。かの守護あるいはその下にある有力な被官人らが荘園を横領し、年貢を本所領家に運ばなくなったのは、すなわち成るべきように成り行《ゆ》いたもので、それらの横領者の御蔭でもって、将来の日本の秩序が促進されるということになったのだ。されば足利時代の末が群雄割拠の形勢になったということは、日本のためにひたすら悲しむべきこととのみはいい難く、しかしてこの大勢を促進したのは、すなわち応仁の乱であってみると、この兵乱は日本の文明史上案外難有味のあるものになる。ところが一条禅閤兼良は曠世の学者であったとはいいながら、政治家としては極めて簡単な保守主義で、准后親房のような達識ではなかった。この大勢を看破せず狂瀾を既倒に回さんとのみ考えた。して見ると日野家の出なる義政夫人を母とし、この兼良の教育を受けたという将軍義尚が、健気《けなげ》な若殿であったけれど、やはりこの大勢には気がつかなかったのにも不思議はない。近江の守護佐々木六角高頼が、本所領家に納むべき年貢を横領するのはけしからぬというので、義尚は公家や社寺の利益保護のため、文明十九年に近江征伐を思い立った。その戦争はずいぶんナマぬるいものであって、あたかも欧洲中世の八百長戦のようであったけれど、師の名義に至りては堂々たるもので、つまり理想のための戦争であった。ただし大勢に逆らった目的を達しようとする戦争であるから、その成功を見なかったのも怪しむに足らぬけれど、二十歳を越えたのみの将軍が、公卿と武人とを取りまぜた軍勢を引率して、綺羅《きら》びやかに出陣した有様を日記で読むと、昔ホーヘンスタウフェン末路の皇族らが、イタリア恢復のために孤軍をもって見込なき戦闘をやったのと相対比して、無限の興味をひき起こさしめる。他日機会を得たならば、余はこの近江征伐を論じてみたいと思う。
義尚将軍の鉤《まが》りの里の陣は、応仁の一乱によって促進された大勢に、さらに動かすべからざる決定を与えたものだ。荘園制度の持ち切れないものなること、頽勢の挽回し難きものなることは、この征伐の不成功によっていよいよ明白になった。秀吉の時にて荘園が全然日本に地を掃うようになったが、その実この掃除は足利時代の後半において引き続き行なわれたので、その荘園取り払いの歴史中で、近江征伐のごときは正《まさ》に一つの大段落を劃するものだ。約言すれば応仁の乱があり、それからして近江征伐が文明年間の末に失敗におわると、その後はいよいよいわゆる天下の大乱となり、京都はその主なる舞台として物騒を加えるのである。京都市中の警察には細川、赤松らの大名その任に当っているわけであるけれど、直接その衝に立つものは、安富とか浦上などの被官人で、所司代の名をもって職権を行使しておった。しかし決して熱心な警察官とはいい難く、騒擾はなはだしきに及びてようやく手を下すのであるから、それらの力によって京都の粛清が十分にいたされ得たのではない。しばしば蜂起する土一揆は、あるいは東寺、あるいは北野または祇園を巣窟として、夜間はもちろん白昼も跳梁し、鐘をならし喊声を揚げ、富豪を劫掠する。最も多く厄に遭うものは土倉すなわち質屋ならびに酒屋であった。襲撃のおそれある家では、危険を避け、一揆が徘徊すると酒肴を出して御機嫌をとる向きもあったが、町内または知人らから竹木を集めて町の入り口に防禦の柵矢来を構うるやからもあった。いわゆる土倉の中には命よりも金銭を惜む輩もあって、刃を執って一揆等と渡り合い、夫婦共に非命の最期を遂げたという話もある。一揆は夜分こそこそ掠奪するのではなく、堂々と篝火を焚きて威嚇するのであったが、掠奪も多くは放火に終った。洛内の火災その半ばは彼ら一揆の仕業である。要するに一揆も群盗には違いがないが、一揆というほどに多勢でない群盗の横行もまた頻繁であった。したがって人殺しも珍しくない。下々の輩の気が荒くなって、何とも思わず乱暴を働く者の多かったこと勿論であるが、優にやさしかるべきはずの公卿も、殺伐の風に染みて、人を害することもあった。のみならずかく物騒なのは洛外も洛中と同じことで、大津や山崎との往来も折々は梗塞された。
かく述べ来ると当時の京都の住民は、朝《あした》をもって夕《ゆうべ》を計り難く、恟々《きょうきょう》として何事も手につかなかったように想像されるが、実際はさほどにあわてて落ちつかぬ暮らしをしていたのではない。ノン気であったとはいえぬけれど案外に平気なもので、時に際して相応に享楽をやっている。遊散にも出かければ、猿楽も見物した。加茂や祇園の例祭には桟敷もかかり、人出も多かった。兵乱や一揆のために焦土と化した町もあると同時に、その焼け跡に普請《ふしん》をして新宅を構うる者も続々あった。土御門内裏のごときも、焼亡の後久しからずして再建になった。将軍の柳営とても同断である。これが決して驚くに足らぬわけは、内裏の御料所や公卿将軍およびその他に納まるべき年貢は、一乱以後大いに減少したとはいうものの、全く納まらなくなったのではないからである。あるいは規則どおりに、あるいは不規則に、とにかくに年貢が続いて運ばれ、越後、関東、西国等から金米その他方物が京都に輸入され、また諸種の用件を帯びて遠国からわざわざ入洛する者絶えず、故に京都には一定の地方を限りてその入洛者に特に便宜を与える店舗も出来た。これらの旅人からのコボレや輸入などで京都の町はその繁昌を維持し、殊に三条、四条辺にはかなり大きな店が並んでおったらしい。乱世であるのにこの状態は、一見すると矛盾のはなはだしいものと考えられべきはずであるが、実はそうではなくして、かえりて道理にかなった話なのである。というのは、いかに兵乱が危険でも、常習性の者になると恐れてばかりはおられないからであって、次第に危険を軽蔑するようになり、遂にはいよいよ焦眉の急に切迫した場合は別として、さもない時には成るべく取越し苦労などをしないこととなるのである。この呼吸が呑み込めずしてはとうてい足利時代を会得することができない。
大体上述のごとき京都市民の生活の中で、特に公卿はいかなる特別の生活をなしておったか、これがすなわち次に起こってくる問題である。ちょっと考えると王権式微の武家時代であるによって、公卿の窮乏もさぞかしはなはだしかったろうと想われるのは当然のことであって、実際生活難に苦しんだ公家もまた少なくない。皇室の供御《くご》も十分とはまいらなかった時代であるからして、公卿の困ったのはむしろ怪しむに足らぬことであろう。坊城和長がその日記中女子の生れた事を記したついでに、「女の多子なるは婦道に叶うといえども、貧計なきにおいてはもっとも、こいねがわざるか」とこぼしている。その他の公卿日記にも、秘計をやることがしばしば見えているが、秘計とは金策をするという義なのだ。先ず食物から述べると、他の階級の輩はどうであったかわからぬが、少なくともそのころの公家は二食であったらしく、すなわち朝食と夕食とのみで、昼食というものは認《したた》めなかったと見える。昼食に相当するものの喫せらるるのは、旅中の昼|駄餉《だしょう》くらいであったろう。しかしてその朝食の喫せらるるのは、たいてい朝の八時から九時にかけてのことで、今日における日本人の朝食に比すると、案外落ちつきてゆっくりと認めたものらしい。時としては朝食からして引き続き酒宴に移ることもある。先ずフランス人のデジネのようなものであったろうか。かかる朝食であるからして、客を招きてこれを振舞うということもおのずからあるので、中以下の公家の間におけるその招待のさまがすこぶるおもしろい。心安い客を朝飯によぶ時には、主人の方では汁のみを支度することが往々であって、その汁とても無論一種のことが多く、あるいは松蕈《まつたけ》汁とか、あるいは鯨汁とか、あるいは菜汁とか、つまり汁の実にすべき季節の物かもしくは遠来の珍味を得た時は、それだけでもって客をするのである。しからば肝心の飯はどうしたかというに、それは招かれた者どもの方で持ち寄るのである。招待した方
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