からは飯を供せぬ。朝飯をもろくに食することのできぬ同族を招く時はこの限りにあらずである。かくのごとき飯の持ちよりというシミッタレた招待は、無論極く懇意の間に限られたのであろうけれど、それにしても飯米というものがいかに彼らの間にすこぶる貴重に考えられておったかが想像される。また二人以上の男子を持った親は、そのうちの一人を出家にすることは珍しくなかったのだが、これも一つには糊口《ここう》の都合からしてのことらしい。しからば女子をばいかに捌《さば》いたかというに、宮中や将軍家の奥向きに奉公するか、または同輩の家へ嫁にやることができれば、さらに不思議のないことであるが、都合によりては将軍の家臣たる武人に嫁せしめることもある。武人も人によりけりで、幕府の直参《じきさん》かもしくは大国の守護へでもくれてやることならば、これまた怪しむに足らぬことで、すでに鎌倉時代にもその例多くあることであるが、東山時代になると必ずしも直参と限らず、陪臣すなわちそれら直参の被官人にくれてやることをすらも厭《いと》わなかった。中には体面を保つためかは知れぬが一旦幕府直参の武士の養女分にして、それからさらに一段低い武人に嫁入らした例もある。
田舎の武人で相当な勢力を養い、場合によっては公家の娘でも嫁にもらおうかという権幕の者は、その日常生活においても公家の真似がしたくなるのは自然であって、それがまた公卿の財源になり、公卿の中には、手もと不如意になると遍歴を始めて、地方豪族を頼り寄付金を集めた者も少なくない。しかしてこの目的に最も好都合なのは、すなわち蹴鞠《けまり》の伝授であった。彼らが地方へ行くと蹴鞠のほかにも、連歌などをやったものだが、連歌は文学としてすこぶる愚なものであるにもかかわらず、その道に上達するのには相当の素養が必要で公卿なら誰でも連歌の師匠になれるというわけには行かぬ。故に地方の余裕ある豪族らの連歌を稽古するには、必ずしも公卿を要せずして、宗祇とかまたはその門下の連歌師に就いて教を受くる方が多かった。ただ蹴鞠に至ってはそうは行かぬ。これはほとんど公家の専売の芸であって、これを習うには地下の者を師としたのでは通らぬ、ぜひとも公家に弟子入りするほかはない。そこで蹴鞠に長じた公卿は、京都でももちろん弟子をとるが、また地方へはるばると出稽古をする。しかしてこの出稽古がなかなか実入りのよかったものだ。起原はともかく、連歌は先ず大体足利時代の特産物ともいうべきものであるが、しかしながら決して公卿の専有物ではなく、したがって武人中公家風を真似ようと思わぬ者すらも、連歌をばやったので、連歌をやる者必ず公家化したとはいえない。しかるに蹴鞠はこれと別で、公卿の真似をしようという者は、必ずこの蹴鞠から始める。これあるいは当時蹴鞠が京都で非常に流行しつつあったがためでもあろうか。その辺しかとはわからぬが、とにかく蹴鞠は公家の真似の序の口で、大名もやれば堺辺の富有な商人もやった。しかしてこれをやるものは必ず大いに余裕のある者であったから、したがって公家が地方へ出稽古をするとなかなか実入りのよかったものである。
遠国へ出稽古というと旅行の必要が生ずるのであるが、それについては秩序の乱れた当時に物※[#「總のつくり」、「怱」の正字、356−上−15]《ぶっそう》な恐れがあろうと心配する人があるかも知れぬけれど、それにはまたそれ相当の方法を講じたものである。すなわち幕府に有力な武人の助けを借りるのだ。彼ら公卿は表面武人に雌服し、殊に将軍に対しては摂関家以上の敬意を払うことを否まなかった。さすがに太政大臣という官をば容易に将軍に許さなかったけれど、事実上の極位すなわち従一位をば、あまり惜しまずに与えた。義尚将軍はわずかに十九歳にしてこの極位に叙せられたが、これは摂関家ですらほとんどない例である。しかし内心公家は武家を軽蔑しておったので、武家に授ける官位をばあまり苦情をいわずに許したのは、武家なるが故に標準を別にしてもよいとの理由に基づくものであって、たとえていわばちょうど一しきり日本の留学生に対して、西洋の堂々たる諸大学が比較的容易に学位を授与した例があるのと似たもので、彼らの仲間内ではいつになっても官位をば苛《いやしく》もしなかったのである。つまり公家らはかくして武家の名聞《みょうもん》心を満足させてこれを喜ばすと同時に己らの品位をば保ち得るものと思ったのである。したがって武人の任官叙位の標準が鎌倉時代よりも高まったとて、公家がよく多く武家を尊敬したという証拠にはならず、公家の内心にはほとんど先天的とも評すべき軽侮心を武人に対して懐きつつあったのである。義政が文明五年の二月に参内して宮中の御酒宴に加わらんとした時に、「酒宴の事は内々之儀、男女混乱の間、外人は如何、」という理由で一旦は拒まれんとしたがせっかくに願い出でたるに対しこれを拒むことになると、武家の面目を傷つけ、感情を害する恐れがあるとの説が通って、ついに参内を許さるることになったのであった。しかしそれでもなお不平な公卿があって、禁色を聴《ゆる》された者が雑役に服する例のないことを言い張り、将軍参内当日には祗候せぬ、とダダをこねた話もある。将軍に対しての待遇すでにかくのごとくであるからして、公卿と武人との交際においてもまたこれに類することが往々にしてあった。たとえば連歌の会のごとき、風流の席であって、必ずしも階級をやかましく言わず、公卿も武人も地下も、共に膝を交えて韻事を楽しんでいるように見えるけれど、その実はなかなかそんなに平民主義の徹底したものではなく、階級の障壁をばあくまでも取り除くまいとつとめた。ある年の始めにさる公卿の家で連歌の発会のあった時、杉原某という武人が講師を勤めたことがあるが、それに出席した一公卿は、雲客坐に在るにもかかわらず、その中から講師を選ばず、また主人の公卿がその任に当ることもなさずして、この名誉の職を武辺者《ぶへんもの》に勤めさすということは、はなはだ不審なことだと、その日記に認めている。畢竟《ひっきょう》貴族が己れの都合によっては、下級の者と伍することをいとわぬのは、一見平民主義から来ている現象のごとくではあるが、もし下級の者がそれらの貴族を対等視することになるとたちまちにして彼らの階級的の誇を傷つけ、不平の念を起こさしめるということは、要するに真に平民主義な貴族のはなはだ少ないことを証するものであるが、足利時代の公家の心理はまさにそれであった。武家を軽蔑するけれど、抵抗の無益なことはよくわかっているから、無謀な企てをばなさぬ。そのかわりにできるだけ武家を利用してやろう、これが公家らの立場であったのである。故に前にも述べたとおり己らの荘園からして全然地頭を斥《しりぞ》けようとはもはや試みぬかわり、それらの武人らに頼んで、取れるだけの年貢をとるようにする。百姓らが納め渋ぶる場合に武家の命をもって催促させる。御奉書を出させる。それだけでは武人の方に利益がなく、真面目に依頼の件を実行してくれそうにもない場合には、もし催促の利目《ききめ》があって首尾よく年貢が納まるならば、その半分を周旋した武人にやろうと利をもって誘う者もある。
これに類するような公私種々の関係が、公卿と武人、殊に幕府の権臣との間に生じ、公卿はさまざまの事件を持ち込んで武人に依頼する、旅行する場合とても同断である。先ず幕府の有力者からして、前もって近国の大小名らに、何某近々旅行の件を触れてもらえば、それで途中の旅宿に心配はない。野心ある武人のお宿はどこでも喜んで引き受けるというわけに行かぬが、公卿なればどこでも歓迎する。危険はないのみならず、連歌をやったり蹴鞠をやったりして、田舎生活の単調を破ることができるからである。ちょうど今の人が漫遊の書画家を歓迎するようなもので、なおその上に高貴の人を宿し、親しくこれに接し、もって一つには家門の誉れ、一つにはこれによって己らの麁野《そや》なる生活状態に研きをかけたいという希望も添うのである。したがって彼らは遍歴の公卿のために宿を貸し、路銭を給し、乗物を供給することをいとわない。たいして歓迎せず自己の館に泊めぬにしても、然るべき旅宿、多くは寺院に案内して、相応の待遇をなしたものだ。故に公卿らは、その遍歴に際してほとんど何らの危険なきのみか路用がほとんど入らずして、かえりて少なからぬ貰いがある。はなはだしきに至っては、出発の最初から無銭旅行で、然るべき幕府の武人に無心し得たものを持って、踏み出す連中もある。ほとんど名義のみとはいえ、とにかく朝廷に官職を帯びた者どもが、勝手に旅行をして公務に全く差支えがなかったかというに、それはもちろんのこと差支えがあったのだ。中に姉小路や一条家のごときその分国に永らくの滞在をしてほとんど京都に定住せず、また三条家のごときは、永らく今川氏に寄食した。こういう例は多くある。それがために宮中に祗候の人数が減る。したがって公事に事欠ける。けれどもそのころの公事というのはほとんど儀式のみであって、実際の政務というべきものでないから、差支えといったところで格別我慢のできぬほどの差支えではなく、したがってその差支えの顧慮からして遍歴を思い止まるというほどのものではなかった。また久しく京外に在ったなら、彼らの官位の昇進に影響があるかというに、この方にもたいした影響はなく、京都におらぬ者の叙任昇進には、わざわざ使者をもって遍歴先きまで辞令書を送り届けてやったから、田舎におっても昇れるだけは昇進ができた。
しかしながらすべての公卿が皆この遍歴の方法によって暮らしたのかというに、もちろんそうはいかぬ。ずいぶん逼迫した公卿もあって位階昇進の御礼に参内する際、武人の袍《ほう》を借り受けて間に合わした者もあるくらいだ。ただ読者の注意を促しておきたいのは、彼らの全部が、彼の蚊帳を著ておった某公卿のように、洗うがごとき赤貧でもなかったということである。禁裏の供御とても不足がちには相違なかったけれど、その不足は必ずしも幕府の専横からして来るばかりではなく御料所内の百姓の横着か、または村の有力者の私曲から起因することもあった。しかしそれらが滞りなく納入になったところで、その金額がたいしたものでなく、ずいぶん余裕の少ない御経済であったことはいうまでもない。費用のないところから即位式をも往々にして省略されたのは、けだしそのためであろう。しかしながら恒例の節会《せちえ》等の停廃をもって、直ちに宮廷の御経済向き不如意のためと、一概に断定するわけにはゆかぬ。というわけは、御料からの収入で支弁さるべきものと武家から差上ぐる御用脚で支弁さるべき分とその間おのずから区別があって、もし武家からの差上金が滞うる場合には、それがためにそれによって支弁さるべき儀式を見合わせられるので、必ずしもこれをもって官帑《かんど》全くむなしかったためのみということができぬからである。時には武家累代の重宝と称せらるる掛物が、武家からして質屋に入り、遂に質流れになったのを、二千疋以上を投ぜられて、御府に御買上げになることもあった。公卿の家に持ち伝えた日記を、その家の微禄のために散佚の恐れあるを憂えられて、代物を賜わって宮中に召置かるることもあった。従来歴史家がややもすれば王宮の式微を叙すること極端に失し、はなはだしく御逼迫のように説くのは、後に起こった勤王論と対照さすために、あるいは必要なことかも知れぬけれど、実際よりもはなはだしく御窮乏を叙し奉るのは、かえりて恐れ多いことだろうと考える。三条の大橋からして御所の燈火が見えたという話は、人のよく知っていることであるが、これは必ずしも御所の大破損のために燈火の洩れたのと断言ができない。兵乱のために京中の人屋一時ことごとく曠野と化した時、御所の東門からして鴨川原まで一望し得るようになり、したがってその荒野原で噛み合いをした犬どもが禁裏の中に紛れ込んで、しばしば触穢《しょくえ》の原因をなしたということがあるから、多分同じころ一時の現象として、御所の燈火も大橋から見えたの
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