だろうとも思われる。要するに応仁乱後の京都は乱前よりもいっそうさびれ、公家の生活は一段と苦しくなったであろうけれど、後世からして史家が想像したほどではなく、いろいろな工面をしつつどうにか過ごしたものらしい。下級の貧困なる朝臣が朝飯からして他人の家で認めなければ糊口が出来なかったもののあることは、日記などに見えているけれど、下級の朝臣の困窮は藤原時代からのことであって、足利時代において始めて見る現象でない。また足利時代の京都は、無警察であるとはいうものの、また公卿の家も時々賊に襲われたとはいうものの、生命の安全からいえば、公卿の家ははるかに武家よりも安全で、深く武家と結托し、戦陣まで同道するというような連中のほかには、生命の危険というものは極めて稀であった。されば公卿でも、中以上の連中になると、概して応仁後においても気楽な暮らしをなしつつあったのである。しからばその中で三条西実隆はいかなる生活を送ったか。さらに回を重ねてこれを説こう。
 先ず実隆の住宅からして説き起そう。『実隆公記』の明応七年五月十八日の条に、中山家の雑色《ぞうしき》が黄昏《たそがれ》ごろ武者小路において、何者のためにか疵を蒙ったことを記して、その割註に「この亭垣を築く前」としてあるところを見ると、この時分の三条西家は武者小路に在ったらしい。しかも北側ではなかったろうかと思われる。というのは三条西家の東隣には正親町三条家がおったらしく、実隆のみならず家族までもそれと往来しているが、その東隣の宅地の巽《たつみ》の角に、諏訪信濃守の被官人某が、明応七年に地借りをして、小屋を造ったということがある。さてその小屋なるものは地内でもたいてい武者小路の往来に近く建てられたものと想像し得べく、しかしてそれが巽の角であって見れば、これを街路の南側とは見なし難い。ところが文亀二年になると、西面の築地新造の際西の方があき地であったので、二間ほどそのあき地へ押し出したことが日記に見え、また南の方は不遠院宮と地続きであったがその不遠院宮でも同様に西の方へはみ出されたと日記に記されてある。しかしてそれがかつて応永の末日野資教の住した地だといっている。さすればこれは武者小路の宅ではない。実隆の家は明応九年六月下旬の火災に類焼したのであるから、おそらくはこれが移転の原因となったものであろうと思われる。さてその引移り以前の武者小路の住宅はいかなるものであったろうかというに、前に述べたとおり、宅地そのものは南向きで、北は今出川の通りまでぬけておった。一般の公卿の邸宅の例に洩れずして、往来に面した方は土塀すなわち築地をもって囲われ、その築地の外側には堀を穿ってあったのであるが、これが土砂のために浅くなるので、時々|浚《さら》いをしたらしい。深くしておかなければならぬのは、盗賊の用心のためである。しかしながらこの外堀のみでは、安心ができぬによって、さらに釘貫をつけそのうえ土塀の内側にいま一条の堀を廻してあった。されば南門からして入っても、先ず一の橋を渡らなければならない。この内堀は東西南北の四面に在ったらしいが、東南の角だけは、後に埋め立てられて築山になった。これは多分物見に便するためであったろう。家屋は宅地の中心より少々西に偏しており、庭はその東方にあったらしい。母屋の西の方には、独立の小家屋があったが、これは三条西家で久しく召使った老官女の扣家《ひかえや》であって、明応九年の類焼の前年に取り毀ちになった。その理由は『実隆公記』に、「修繕手廻りかぬるため」とあって、その跡が用心のため、西内堀に直されたのである。旧宅は今出川の通りからして、武者小路の通りまで貫いておったのであるが、新宅の方は西の方が室町通りに面しているのみで、南は不遠院宮北は新大納言の典侍の間に挾まっておったらしい。新大典侍の方からして北方の地を割《さ》いてくれとの交渉が永正七年にあったのを見ると、どうしても地続きとしか思われぬ。西側が往来に面しているからして、新宅の此側の用心はなかなか厳重で、例の釘貫の設備もあった。築地も造り直した。西北隅には矢倉があった。門の前には土橋を構えたとあるが、これはもちろん塀の外の堀に架した橋だ。南、東の側には塀内に堀があったらしく、北側の用心に、釘貫のあったことだけは明かである。文亀二年になって売物に出た小座敷を買入れて、これを邸内に建て直したとあるのは、これは子なる公条がこの年十六歳でその春には右中将に転じたほどであるから、だんだん家が手狭になったによっての故であろう。この建直しの普請のために、以前の堀を埋めて別に掘り直したとある。永正六年には公条邸の南面に水門を掘らしめ築山をも造った。しかして矢倉の方はその一年ばかり以前に取り毀ってしまった。南隣に住まわれた不遠院宮は文亀四年に薨ぜられたが、その後はその邸もあるいは実隆の差配に属したのかも知れぬ。大永七年に花山家からして借入れを申込まれた時に、実隆は今仁和寺宮の衆が宿舎としているから、貸すわけに行きかぬると断わっている。
 住宅は先ず右のとおりであったと仮定して、次にそれに住した家族について説こう。実隆の父は長禄四年に六十三歳をもって薨じたのであるが、そのとき実隆の年|甫《はじ》めて六歳。その後は専ら母親の手塩に育った。故に実隆は父を懐うよりも母を慕う情が深く、父の墓所二尊院に参詣するよりも、しの坂の母の墓に謁する方が、思い出の種も多かったのである。母というのは前にも述べたごとく、甘露寺親長の姉で、寡婦となってのち子の傅育《ふいく》に忙わしかったが、文明二年十月の末実隆が十六歳に達し、従四位下少将まで進んだ時、鞍馬寺において落髪した。当時鞍馬寺境内に公卿の居住すること稀ならず、長直朝臣などもおったらしい。三条西家もいかなる縁故あってかまだ穿鑿《せんさく》をしてはみぬけれども、以前からして鞍馬寺境内に家屋を所持し、もしくは寺の建物を借り入れて住居としておったらしく、実隆の母公の落髪も、やはりその宿所においてしたので、その時には母公の弟親長の妻が、はるばる鞍馬まで出向いた。翌文明三年尼公が執行作善の時には、実隆は叔父親長とともに出向き、親長は二泊して帰洛したとある。このころの実隆は主として母尼公とともに鞍馬の方に住居し、時々京都に下ったものらしく、文明三年の十二月下旬から出京し、己の第《やしき》と親長の第《やしき》とに、十余日|淹留《えんりゅう》、正月年頭の儀を了えて鞍馬に帰ったとある。しかるに母尼公は落髪後久しからずして、文明四年十月中旬に歿した。実隆の室勧修寺教秀の女が、三条西家へ輿入れして来た年月をば探し当てかねたが、長子公順の生れたのは、文明十六年すなわち実隆が三十歳の時で、その後三年にして次男公条が生れた。子としてはこのほかに女子一人あったが、これは二人の男子の姉であって、後に九条尚経に嫁し、植通の母となった従三位保子である。
 しからばその召仕にはいかなる者どもがおったかというに、最古参者は父公保の時代永享十一年十八歳で三条西家へ奉公し、もって実隆の代に至るまで歴仕した右京大夫という侍女である。彼の武者小路の家で西の小屋に住しておった者すなわちそれで文明十五年ごろまでは、その母なる者も存生であったらしい。永正元年八十三歳まで勤続して落髪し、法名を光智禅尼といった。その後五年にして老病のため永正六年に歿したが、実隆はこの侍女の三十四歳の時に生れ、厚く介抱を受けているからして、その亡母の年回にも贈り物をし、その老官女が歿した時は、葬式その他万端特別の待遇であって、命日には法事をも営んでやったほどである。この老官女の下に梅枝という下女があった。これも久しく召仕われた婢で、永正二年その中風で歿した時の条に、「三十余年召仕う正直ものなり、不便にして力を失しおわんぬ」とあるから、おそらく文明の初年ごろからしてこの家に奉公した者であろう。されど老官女ですら、私穢を厭《いと》う当時の習慣のために、その病|革《あらた》まるに及び、来客の輿《こし》を借りて、急にこれを近所の小庵に移したくらいであるから、まして梅枝のごときは、死に瀕してから夜分今出川辺に出してしまった。大病人を逐い出すのは当時一般に行なわれたことで、三条家の知合なる某亜相のごときは、十一年間も妾同様にしておった女を、やはり大病になると近所の道場まで舁《か》き出させたことがある。されば実隆が二人の女中を死際に門外に出したとて、決して残酷な所為とはいい難い。この二人のほかに女中に関することは、総領娘保子の乳母にて雇った女が、男を拵えて逃亡を企てたところ、一旦は尋ね出された、しかし遂にはその男と奥州に下向したとの記事あるのみである。しかしながら女中はこの三人と限ったわけではなく、駈落した右の乳母の後任も入れたろうし、男の子のために別に雇われた乳母もあったかも知れぬ。また老官女や梅枝のかわりも出来たかも知れない。
 三条西家の男子の召仕には、雑掌すなわち家令のような役をしておった元盛という者がある。これは通勤の役人であって、時としては主人の一家を私宅に招待し宴を催すこともあったが、文明十九年三月末に賜暇を得て越前の国へ下向し、間もなくその地において病歿した。この者は青侍《あおさぶらい》中特別の者であったからして年回には相当の合力をしてやったのである。この元盛が老年になってからわざわざ越前に赴き、そのまま歿したところを見ると、越前に在った三条西家の所領の出身なのであったろう。しかし元盛の妻は本来尾州の者であったらしい。尾州には三条西家の所領があったから、あるいはその出身かも知れぬ。これは夫の歿後には尾州に下向した。その際夫婦が住みならした家屋をば、さる公卿に売り渡したことが、『実隆公記』に見えている。この元盛の子に盛豊というものがあった。父の後を承《う》けて三条西家に奉仕しておったが、父の功をかさに著てか、我儘の振舞多く、過言などもしばしばあったと見え、明応五年には実隆も堪忍しかねたらしく、一旦は召仕わぬと申し渡した。けれどもそれまでの好みを考えると、そうもできなかったらしく、明応八年四月、元盛の十三回忌に、盛豊が形のごとく僧斎を儲けた時に、実隆は家計不如意のため、志があっても力が及ばぬ、十分な補助ができぬのは遺憾だと歎いている。元盛父子のほかに三条西家の召仕としては、故参者に中沢新兵衛重種という者があって、元盛の歿後は、この者が家令のようである。この重種の父もやはり三条西家奉公人であったらしく、延徳二年その亡父の十七回忌に当ったので、家中衆が斎食の儲をした記事が見える。延徳三年の春からして、この中沢は年千疋の給金になった。ただしこの中沢は元盛のごとくに外から通勤したらしくはなく、三条西家の邸内に住んでおったらしい。そのほか実隆が永正六年に雇った青侍に、林五郎左衛門というのがある。近江高島郡の者で、数年間正親町一位入道の青侍をしたのであるが、日記に「新参のよう先ず召仕うべし」とあるから、返り新参ですなわち以前三条西家にも奉公した履歴のある者だろう。『親長記』文明六年の条に、内侍所刀自が病気になったにつき、親長は実隆の家の青侍林五郎左衛門といえる者を医師として、見舞にやったと記してあるからには、この林は同一人かあるいは親子であろう、そして当時しばしば見受ける素人医者であったものと考えられる。この林はその在所にいくらか資産のあった者と見え、永正七年近江が乱れた時、その資財の始末のため、賜暇を得て帰郷したことがある。なお森弥次郎、千世松の両人の三条西家の召仕人として見えているが、この両人は喧嘩両成敗で永正二年に暇を出されている。暇を出した後数日弥次郎の父が誅せられたということを聞いて、それとは知らず弥次郎を逐い出したのであったが、まことに好時分に出したもので、天の与うるところであったと、実隆は記している。千世松のことはつまびらかにわからぬが、少なくとも弥次郎は譜代の奉公人ではなかったらしい。

 上述のごとき家族と上述のごとき使用人とを有した実隆の家計は、いかにして支えられたか。先ずその領す
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