象であった。されば絵師に註文するにあたっても、用意なかなか周到なもので、善恵上人の肖像には黄色の珠数を添えるようにとの注意をすら、ことさらに与えている。
予がかく浄土教と実隆との関係を縷説するのは、これが大いに実隆の文藻に影響を有するからなので、いたずらに言を費すのではない。その昔アッシシのフランシスの信仰が、トルヴァドールと密接なる関係を有したのみならず、この聖者の感化が、当時のイタリア美術に少なからぬ影響を与えたことは、史家の明かに認むるところだ。フランシスのキリスト教におけるは、ちょうど法然等の仏教におけるのと酷似している。しかしてわが国の浄土宗は、もし美術史家のいうごとくに日本美術に影響を与えたものとすれば、美術以外文学の方面にも、相当な影響のあって然るべきはずで、実隆の文学のごときはたしかにその実例を示すものであろう。予は単に実隆が連歌、または連歌気分の和歌を善くしたから、しかいうのではない。連歌にも和歌にも種々の色彩のものがある。禅宗的のものもあれば、浄土宗風のものもある。そもそも足利時代を風靡した宗教は、浄土宗よりもむしろ禅宗ではあろうけれど、実隆において浄土宗は全く無勢力ではなかった。狩野派の絵画と禅味との関係も、しばしば論ぜられることではあるが、絵画は当時まだ狩野派の独占に帰しおわったのでなくして、土佐派というものになおかなりの余勢があった。一概に評し去るのは如何《いかが》わしいけれど、もし狩野派の絵画をもって、禅的気分に富んだものとなし得べくんば、足利時代の土佐派をもって浄土気分のあるものといい得るかも知れぬ。少なくも浄土教が、狩野派よりも土佐派の方に相応《ふさ》わしいとはいい得るだろう。わが国の肖像画というものは、足利時代に始まったのではないけれど、主としてこの時代から流行したもので、土佐派でもこれを画けば、狩野派でもこれを画いた。武家の側の、主として影像を狩野派に描かした事例は、『蔭涼軒日録』に数多く見える。禅僧の肖像とても同様多く狩野であった。実隆は交際の広い人であって禅僧にも、近づきがあったのみならず、画人において土佐派のみを知って狩野派を知らなかったというのではない。現に太田庄へくれてやる扇面の画をば、狩野家にも頼んだ例がある。しかるに旦暮|仰瞻《ぎょうせん》しようという法然善恵の肖像を、武家の顰《ひそみ》にならって狩野家に頼むことをせずに、これを土佐光茂に頼んだということは、簡単にこれを出来心とのみ解釈するよりも、彼の浄土教好尚のおもむくところに従ったのだとする方が、むしろ適切な説明ではあるまいか。けだし実隆は縉紳《しんしん》中の流行《はや》り役者であり、蔭涼軒は武家社交界の中心であった。しかして実隆は武家からも尊敬されて、しばしば柳営に出入した。しかるに不思議にも実隆と蔭涼軒とはほとんど没交渉である。『実隆公記』に蔭涼軒の名の見えているのは、たんに一か所だけであったと記憶する。両者の日記は、東山時代を説明する絶好の二大史料であるが、両者ともおのおの別世界の人であるかのように、自己およびその周囲を叙している。史家からして見れば、そこにまた面白味があるので、これを対照することによって、浄土的な実隆の面影も、さらにいっそう判明になり得るのだ。
実隆はその情緒を浄土宗的信仰によって養った。しかしながら宗教心のみで文学者ができるものではない。実隆がその詞藻を養うためには、またそれだけの修養を積んだのである。歴代の歌集をば、読みもし写しもしたのみならず、いわゆる和学の書で古典とも称すべきものは、ほとんど残りなく渉猟した。『曾我物語』や、『平家』や、『太平記』や、ないしはまた足利時代に流行した『秋夜長物語』の類にも通暁した。歴史物では『神皇正統記』を愛読した。漢籍においても相当の薀蓄《うんちく》はあったので、その師は今いちいちこれを尋ぬるに由がないけれど、菅大納言益長の文明六年十二月に逝去せるを悲しみて、「譜代の鴻儒当時の碩才なり」と称え、かつその孫和長とは特別に懇意にしておったのを見ると、年輩から推して益長などにも教えを受けたのかと思われる。次に師と頼んだというほどではあるまいけれど、長享から延徳にかけて、一勤という者の講義をたびたび聴聞したこともある。この一勤は厚首座といい、坂東から上京した博学の老僧であって、京都では宮方や縉紳の邸に迎えられ、漢籍の講義をしたものだ。実隆は彼からして『毛詩』、『孟子』、または兵書などの講釈を聴聞したことをその日記にしるしている。詩に関しては早くから稽古を始めたらしく、幼少のとき紹印蔵主という者に就いて、『三体詩』の読習を受けたことを、文明十年の日記に叙して、すでに十二年を隔てて今日相遭うといっているから、その『三体詩』の読習というのは、彼の十二、三歳くらいのころの話であったろう。何故に『三体詩』からして始めたかというに、これは当時流行の教科書であったからで、ちょうど徳川時代において、素読といえば『大学』からして始めたようなものだ。そのいかに流行したかは、明応四年に新板の出来たのでも知れる。その『三体詩』の講釈をば文明九年には、宗祇法師の庵で、正宗から、文明十一年に蘭坡から聴いた。翌年には同じく蘭坡からして山谷の詩の講釈をも聴いた。蘭坡和尚というのは南禅寺の詩僧である。また当時山谷とならんでもてはやされた東坡詩の講義をば、桃源周興から聴聞した。周興をば実隆は「間出の雄才なり」と称讃している。かくのごとく詩集に造詣のあったくらいであるからして、彼はまた時々作詩をも試みた。禁裏での和漢の席に列し、また勅命によって孫子※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》[#「孫子※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]」は底本では「※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]子孫」]と※[#「嫡のつくり」、第4水準2−4−4]山《てきざん》とを題とせる詩を作ったことは文明十二年の日記に見え、永正三年には陳外郎から和韻を求められてこれを書し与えたとあり、同六年には雲谷の書いた北野天神の尊像に賛詩を題したこともある。これらはたんに例に過ぎないことはもちろんである。漢籍で愛読したものの中には、『老子経』や『唐才子伝』、『黄梁夢』等の挙げられてあるのを見ると、この方面においても彼の読書の趣味のすこぶる広かったことが知られるだろう。日記永正元年五月の条に、実隆が『源氏』と『蒙求』とを講義したということが見えるが、これがすなわち実隆の実隆たる所以で、まことによく彼の才学の特徴を示している。
『源氏物語』は、足利時代の著作物でももちろんなく、また足利時代において始めてもてはやされたのでもないが、しかも足利時代と特殊の関係を有すものである。鎌倉時代において『源氏』がかなりに読まれ、行なわれたとはいうものの、それは京都の一部縉紳間にのみに限られたもので、『源氏』はまだ日本の『源氏』ではなかった。そもそも鎌倉時代には、いろいろな型の文化が芽ざし、既存の文化と相競わんとしたもので、まだ『源氏』をもって日本文学唯一の典型とするまでには行かなかった。『源氏』が文学界において独歩の勢を成し、文学といえば『源氏』が代表する趣味が最上のものであると考うるに至ったのは、将軍が京都に柳営を開き、一種の公武合体を成し、これに伴って日本の文化も統一しかけ、しかして王朝気分の復活となった、その足利時代のことである。もし足利時代をもって日本文化のルネッサンスといい得べくんば、そのルネッサンスの中心は『源氏』である。『源氏』は足利時代において始めて日本の『源氏物語』となったのである。『源氏』を読まずして足利時代の文化を理解することは、ほとんど不可能といってよろしい。足利時代の物語類の、千篇一律に流れているのは、その根柢においていずれも『源氏』を模倣するかで、これをもっても当時における『源氏物語』の勢力が推測される。しかして実隆は実にこの『源語』の熱心なる研究者であり、擁護者であった。
実隆が『源語』を読み初めたのは何歳ごろからのことであるか、日記ではこれを詳《つまびらか》にし難いが、けだし文明の初年からのことであろう。始めは師に就いたのではなく、『花鳥余情』とか『原中最秘抄』などいう註解本によって研究したらしく、相談相手としては、牡丹花肖柏が出入したらしい。肖柏が実隆の少時よりの交友であることは、日記大永七年四月肖柏堺に歿した記事の中にも見えるとおりであるのみならず、肖柏の名の日記に見えているのが、宗祇の名よりも早いところからして考えても、実隆は先ず肖柏を知り、しかるのち宗祇を知ったらしい。文明八年の八月十九日の条に、この晩肖柏が来て『源氏物語』「夢浮橋」の巻を書写してくれと懇望したとある。あるいは肖柏の手引きによって、実隆は宗祇と近づきになったのかとも思われる。宗祇に関する記事の始めて日記に出ているのは、文明九年七月宗祇の草庵において『源氏』第二巻の講釈があって、実隆が連日これを聴聞した記事である。こののち文明十七年まで宗祇から『源氏』の講釈を聞く話はない。日記にも闕漏はあるが。それのみならず宗祇がその地方遊歴のために、講義を開く折がなかったからでもあろう。文明十七年の閏三月の下旬、五十四帖書写の功成ったというので、その晩宗祇と肖柏とが、実隆の邸に来り、歌道の清談に耽りつつ、暮れ行く春を惜んだとのことである。この写本が出来てからして、『源氏』の講釈はまた開講せられたが、このたびは宗祇の種玉庵においてではなく、実隆の邸において催されたのである。宗祇は宗観、宗作、または玄清等の同宿をかわるがわる連れてきた。肖柏もまたおりおりこれに同伴した。聴手としては、主人公の実隆のほか、滋野井、姉小路等の諸公卿の来会することもあった。宗祇の見えぬ時には、肖柏がこれにかわって講釈をしたが、先ず三度に一度は肖柏の代講という有様であった。場所も三条西家のみならず、時には徳大寺家などへ宗祇を誘引し、そこで講釈せしめたこともある。一帖を講じおわると、慰労として饂飩《うどん》[#「饂飩」は底本では「飩饂」]くらいで献酬することもあり、あるいは余興として座頭を呼び、『平家』を語らすこともあった。かくて文明十八年六月の十八日に『源氏』の講義その功を終えたというので、その夕実隆はわざわざ宗祇の種玉庵に赴いて、だんだんの謝意を表したとのことである。
『源氏物語』の講義の始まっている間に、それよりも少しく遅れて、文明十七年六月の朔日から、同じく宗祇の『伊勢物語』の講釈が、実隆邸に開かれた。『源氏』の方は夕刻を期しての催しであったけれども、『伊勢物語』の講義の方は、朝に開かれたものらしい。されば同日の朝に『伊勢物語』の講釈を聞きて、その晩になると『源氏』の講義を聞くというようなこともないではなかった。その聴聞衆としては、中御門黄門、滋前相公、双蘭、藤、武衛、上乗院、および肖柏等であったと見える。『伊勢物語』は同じく古典であっても、『源氏』などとは異なり、肩のあまり凝らぬ物語であるから宗祇も腕によりをかけ、『源氏』の場合とは違った手加減で語巧みに縦横自在の講釈をなしたらしい。したがって『源氏』の講釈にない面白味もあったらしく、実隆はその日記に、「言談の趣き、もっとも神妙神妙」と記している。『伊勢物語』は『源氏』のごとく浩翰なものでないので、わずか七回でもって、その全部を同月二十一日までに講了した。そこで実隆は檀紙《だんし》十帖、布一段を謝礼として種玉庵[#「種玉庵」は底本では「種庵玉」]に遣わした[#「遣わした」は底本では「遺わした」]けれども、宗祇はかたく辞してこれを返送したとのことである。
宗祇の『伊勢物語』の講義は、よほど面白いものであったと見え、その証拠には伏見宮家からも実隆を経てしきりに所望せられた。宗祇は少々渋ったのであるけれども、実隆の切なる勧め辞し難く、ついに宮家に参入して講義をすることにしたのは、それは文明十九年閏十一月のことであった。しかしてその翌すなわち長享二年の四月には江州の
前へ
次へ
全15ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング