陣に在る義尚将軍からして、同じく『伊勢物語』の講釈を宗祇に命ぜられ、宗祇はわざわざ江州の御陣まで出張して、八か度の講釈をなし、その功を終え、数々の拝領物をし、面目を施して帰洛したとのことである。
『源氏』の講釈が終ると、その翌月からして著手せられたのは、これもやはり宗祇を煩わしての『古今集』の講談であった。宗祇は先ず不立不断のこと、貞応本のこと、為世と為兼との六問答のことなどからして説き起こした。つまり実隆はここに日本文学史上の一秘事たる『古今』の伝授を受け始めたのである。『古今』の伝習にやかましい儀式の附随しておったことは、世人もよく知るごとくであって、宗祇は「先ず心操をもって本となし、最初思い邪《よこしま》なくこの義を習う」ともいい、また「口決の事等、ただ修身の道にあり」とも説いた。講談中は魚味を食することに差支えはないけれど、房事は二十四時を隔てなければならぬということなども、談義中の一か条であった。すべて秘事であるので講談も密々に行なわれ、文明十八年の七月から始めて、翌十九年四月下旬、宗祇の地方遊歴に出かける時に至り、一旦中止となった。皆伝《かいでん》になったのではないので、翌々年すなわち長享三年の三月、宗祇はさらに『古今集序』聞書ならびに三ヶ事のうち切紙一、題歌事切紙一、以上を、実隆の邸に持参して、口伝いろいろ仔細があったと、実隆はその日記に載せている。
『源氏』、『伊勢』および『古今』の講義は、実隆が宗祇に習った主なるものであるが、このほかにもあるいは『詠歌大概』を読んでもらい、あるいは独吟連歌に関する心得を聞き、また宗祇の勧むるに任せて、源氏研究会とも称すべきものを、明応の初年に催したこともある。この研究会に関しては、七人で四箇条ずつの問題を提出して討論をやったが、霜月の日脚短く、宇治に関する分五箇条ほど残ったなどという記事がある。明応ごろには総じて『源氏物語』の流行も縉紳間に衰えたので、さきには講釈などをもよく聞きにきたかの姉小路宰相宗高などは、この研究会へ案内されたけれど、故障があると称して来会しなかった。実隆はその日記において大いにこれを慨嘆し、今時の人は今日のような研究会をもって、愚挙であるとして嘲弄するだろうが、かくも『源氏』を翫ばぬようになったことは、はなはだ不便《ふびん》なりというべきだといっている。実隆のごときは真に『源氏』の擁護者で、換言すればこの点において足利時代における一種の文化の代表者である。足利時代はその終りに至るまで、ついに『源語』的趣味の滅絶を見なかったが、実隆のごときはこれに与《あずか》って大いに力ある者であろう。
実隆にとっては宗祇は師でもあり友人でもあったので、必ずしも彼に教えを仰ぐのみではなかった。前条に述べた研究会のごときはすなわちその一例であるが、歌道においても、宗祇の方からして実隆の批評を求むることもあった。文明十八年の暮に宗祇が独吟二十首を実隆に示して批評を求めたなどに徴してもわかる。その時に実隆はかれこれ批評すべきわけではないけれど、たっての要求故にやむを得ず厚顔至極をも顧みずして心底を述べておいたと、その日記に書いている。されば文明九年ごろからして始まったこの両人の交情は、普通の師弟関係とは異なり、宗祇が実隆に負うたところのものも、また決して少なからぬことであった。宗祇が室町殿に出入し、その連歌の会に臨んだのは、よほど以前からのことらしく、長享二年三月には義尚将軍からして連歌会所奉行を仰せ付けられた。これより以来この奉行人を時人呼んで宗匠と号したと、『実隆公記』に見えているが、これけだし宗匠なる名の濫觴《らんしょう》であろう。しかしてこの会所開きの会が長享二年四月の始めに催された。されば宗祇もその殊遇に感じ、将軍薨去の後、延徳二年三月に、故将軍すなわち常徳院殿のため、四要品を摺写し、十人ほどに勧誘して、和歌を詠ぜしめ、これを講じたことがあって、その時には実隆もその経の裏に歌を書いてやったとのことだ。これらから推しても、宗祇はその幕府との関係において、実隆の推挙によったのではないらしいが、『新撰菟玖波集[#「新撰菟玖波集」は底本では「新撰菟※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]波集」]』の修撰のことから延《ひ》いて、宗祇と宮廷との関係を生じたのは、これはひとえに実隆の取成しによったもののようだ。明応四年修撰に関して兼載との葛藤のあった際に、親王家に申し入れて、その御内意を宗祇に伝え彼を安堵《あんど》せしめたのは、すなわち実隆その人で、その際に宗祇は御蔭で胸襟愁霧を披《ひら》いたといっている。『新撰菟玖波集』二十巻がいよいよ出来上り、宗祇が肖柏、玄清、宗仲等を率いてことごとくこれを校訂し、九月十三日をもって恭しくこれを禁裏に奉献すると畏くも禁裏からは、御感の趣の女房奉書を、宗祇に賜わることになって、勾当内侍《こうとうのないじ》これを認め、実隆はこれを渡すために、宗祇の庵へと出向いたが、折節宗祇は他行不在であったから、留守の者にこれを渡して帰った。宗祇は庵に戻って見ると忝き恩命を拝したことがわかり、一壺の酒と一緡《いちびん》の銭とを持って、すぐさま実隆のもとへ礼を述べに駈けつけたが、今度は実隆の方が留守であったので、土産物を残して帰った。『新撰菟玖波集』には御製の金章長短の宸筆《しんぴつ》をも交えているので、禁裏でも等閑《なおざ》りの献上物のごとく見過ごされず、叡覧のうえ誤謬でも発見せられたものか、女房奉書を賜わった翌々日、また実隆に仰せて今一度校合の仕直しをして進上するようにと宗祇に命ぜられた。そこで宗祇はさらに宗坡とともに校合してこれを差し上げたのである。かくのごとくして宗祇の名九重の上に達し、明応七年十一月には禁裏からして三荷二合の酒肴を宗祇法師に下さるることになった。これもまた実隆の伝達によったので、翌日宗祇天恩の有り難きを謝し、かつ挨拶のため実隆邸を訪い、天恩の一荷を頒ちて、もって当座の礼心を表したとある。実隆はかく宗祇を禁裏に推挙し、その他何事につけても芳情を示したからして、宗祇もまた二なく実隆を頼んだので、在洛の間にたびたびの訪問をしたのみならず、地方遊歴に出かける前、旅行から帰洛した後そのたびごとに必ず実隆のもとに訪れるのを例としておった。そもそも連歌師の常とはいいながら、宗祇の旅行は、その回数においても、はたまたその範囲においても、共にすこぶる驚くに足るものであり、関東には七年も遍歴し、十一箇国それぞれの場所から富士山を眺めて、なかんずく筑波山から見るが最もよいと断定したほどの大旅行家で、したがって方言にも精通し、かつて実隆に『京ニ筑紫ヘ坂東サ』などの物語をしたこともある。
実隆が文明十七年に、彼から『源氏』の講釈を聞くようになった以後、日記に見える彼の旅行だけでもおびただしいもので、最もしばしば、しかも手軽くやったのは、江州と摂州とであるが、江州行きなどは、あるいは彼にとり旅行の部に入るべきものでないかも知れぬ。摂州へ行ったのは、池田に用事があり、かつ有馬の温泉に湯治するための旅行であった。故に摂州行は必ずというではないけれど、多く気候の寒い時、すなわち十月から二月までの間にやったのである。以上二州よりもやや遠い所では、東北は若狭、越前、美濃、西南は紀、泉、播州等であった。それよりも遠くなると東北は越後、坂東、西南は中国筋から九州へかけての旅行もやった。特になじみが深かったのは越後である。これは上杉相模入道の子息なる民部大輔といえる者、仁慈博愛の武士であって、宗祇は特にその引立てを得、重恩を荷なったからである。されば右の民部大輔が長享二年三月生年三十六歳をもって鎌倉であえなき最後を遂げた際に、宗祇は哀慟のあまり、一品経を勧進して彼のための追善を営んだという。かくのごとき縁故があるので、その後も宗祇はたびたび越後におもむいた。また彼が中国九州におもむいたのは、主として大内家を目的にし、越前におもむいたのは、朝倉をたよって出かけたのであるこというまでもない。かく席暖まるいとまもなく、京田舎を出入した宗祇は、晩年遠国下向の時となると、その平素もっとも大切にしている『古今集聞書』以下、和歌、『左伝』、抄物等を一合の荷にまとめ、人丸の影像とともに、これを実隆のもとに預けて出発するを例とした。人丸の影像というものは、早くから歌人の崇拝の目的物となっておったもので、中には他の歌聖、京極黄門その他などを、影像にする向きもあったけれど、最も尊ばれたのは人丸像で、その影供は歌道の一大儀式となっておった。実隆は歌道において飛鳥井の門人であったこと前にも述べたごとくであるが、その門人たる実隆が、飛鳥井家へ年始の廻礼などに行くと、飛鳥井家では、これを人丸以下の影像を飾った室に引見したものだ。また実隆はかつて兼載から、信実の真跡と称する沽却物の人丸影像を示されて、大いにこれに涎垂《えんすい》したこともある。宗祇の所持の人丸影像は、信実の真筆ではなく、これを手本にして土佐刑部少輔光信に写さした新図であった。宗祇がこれらのものを、旅行に際して実隆に預けることとしたというのは、たんに不在中の紛失を恐れたためのみではない。実は長享二年宗祇の北国行のさい実隆との間に約束が結ばれ老体でもあり、遠国へ下向すると再会は期し難いことであるから、もし旅先で万一の事があり、帰京かなわぬ仕儀となったならば、聴書等を実隆に附与しようといったのである。したがってこれを実隆に預けるというのは、万一の際そのまま留め置くようにとの意味なのである。はたして宗祇はその歿する前年すなわち文亀元年の九月に『古今集聞書』切紙以下相伝の儀ことごとく凾に納め封を施して実隆のもとへ送り届けた。実隆これを記して、「誠にもって道の冥加なり、もっとも深く秘するところなり」といっている。
宗祇と実隆との歌道の因縁上述のごとくであるからして、その往来も頻繁に単に文学上の交際のみに限らなかった。宗祇は文明十七年に闕本ながら古本ではありかつ美麗な『万葉集』十四冊をば、実隆に送り、そのほか定家卿色紙形一枚を送り、また宗祇が香道の名人で、自身調合にも巧みであったから、種々なる薫物を送り、あるいは養性のためにせよとて蒲穂子を贈り、筆の材料にとて兎毛を贈り、唐墨を贈り、旅から帰ると、旅先の名物と称せらるる器物や食物や反物などを土産とし、しからざれば一壺の酒|一緡《いちびん》の青※[#「虫+夫」、第4水準2−87−36]をもって土産として、ある時は三条西家の青侍等の衣服にとて帷《かたびら》三を贈ったこともあった。実隆眼病になやむと聞きて、目薬を贈ったこともあった。実隆の方でもまた宗祇に対して一方ならぬ懇情を運んだ。秘蔵の『神皇正統記』をも、望むに任せて宗祇に与えた。宗祇の依頼に応じて、彼の連歌集なる『老葉《わくらば》』を清書してやった。同じく[#「同じく」は底本では「国じく」]依頼によって「桐壺」の巻を書写せる際などは、その出来上らんとした日に、禁裏から召されたけれども、実隆は所労を申し立てて不参し、もって書写の功を終えたのである。その他宗祇のために、あるいは『源氏』五十四帖の外題《げだい》を認め、『新古今』、『後拾遺』、『伊勢物語』等の銘を書し、またしばしば扇面に書し与えた。扇面は、時として実隆の方から旅行の餞別に出したこともあるが、多くは宗祇の所望によったものである。中には大晦日に頼まれて、即座に書いてやったこともある。色紙を三十六枚所望されてこれを書いたこともある。かくいえば頼む方もずいぶん無遠慮なやり方と称すべきで、書いてもらった扇子や色紙を、宗祇の方でいかに処分したかというに、無論自分の翫賞のためのみではなく、人に頼まれた分もあろうし、また中にはそれでもって宗祇が自分の義理をすませたことも多かろう。大晦日に頼みに来た節などは、さすがに実隆も不平であったと見えて、その日記に「※[#「總のつくり」、「怱」の正字、399−上−19]劇中の無心といえども、染筆してこれを遣わす」といって頼むままに扇三本に書いてやった。
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