て貂《ちょう》に続き、竹を栽《き》って木を修むるような仕儀に立ち至らしむるよりは、いっそのこと己の子をもって、相続せしむる方がよいとのことだ。実隆が己の子に跡目をつがす決心をしたことは、それで合点が行くけれど、長子を措《お》いて次男を相続人に定めたことは、これだけでは分明でない。相続人の定まった長享二年には、長子五歳次男二歳であった。長子の方が格別の器量でないという見当がほぼついたので、それよりは未知数の次男にと決したのか、さりとも他の理由あってのことか。『実隆公記』には、長享二年三月第二子公条叙位の条に、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり、次男相続また嘉模《かぼ》なり」とある。叙爵の早い方がめでたいには相違ないけれど、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり」とあるのは解し難い。現に実隆当人は四歳で叙爵している。もし自分を嘉例の中にかぞえぬというならば、「次男相続また嘉模」の方が了解し難い。実隆は次男で、父公保の跡を相続したのであるけれど、その公保に至りては、正親町三条家の次男で、三条西の跡を養子として相続したのである。要するにこれぞ十分な理由というべきものが知られてない。何か深い事情があるのかもわからぬ。長子誕生の初め、春日大明神に奉ることを祈念したというからには、あるいはそのためかとも思う。
理由はともかく第二子公条は相続人と定まり、その兄は出家することになったが、場所は春日大明神の管領する大和国内でなければならぬというので、最初は興福寺を望んだが、都合がつかなかったので、東大寺の勧学院に入れることにし西室と称した。入室以来いっこう学問に身が入らず、実隆も心配しておったが十三歳のとき文殊講をやり、その所作神妙で諸人感嘆したというので、先ず大いに安心した。その得度《とくど》して名を公瑜と号することになったのは、翌々明応七年十五歳の時である。この間に公条の方は次第に昇進し、明応二年には美作権介《みまさかごんのすけ》を兼ね、三年には従五位上、六年には十一歳で元服、右近衛権少将に任ぜられ、七年の十二月ちょうど兄の得度する少し前に正五位下に叙せられた。それからして父実隆の致仕《ちし》した永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
諸種の事態が輻湊《ふくそう》して実隆の辞意を決せしめた。日記永正三年正月二十七日の条に、「孟光いささか述懐の儀あり、不可説の事なり」とある。実隆が夫人から何事を述懐されたのかは記してないから、夫人が引退を勧めたのか、または抑止したのか、その辺は知り難い。とにかく実隆は内大臣にしてもらいたいと歎願に及んだ。一旦大臣になりさえすれば、直ぐに引退するということを、最初からして条件にして願っている。そこで朝廷では空位である左大臣へ、右大臣の尚経を転じさせ、その後に内大臣の公藤を移し、もって実隆を内大臣に任命した。任ぜられたのは二月の五日で、在職わずかに二か月、任大臣の拝賀をも行なわないで四月五日に致仕した。時に年五十四、実隆が引退すると、その翌年に公条が参議になり、従三位に叙せられた。実隆の希望どおり、相続がめでたく行なわれたのである。
致仕後の実隆は望みを官場に絶ったから風流|三昧《さんまい》に日を暮らした。永正十二年に従一位に叙せらるべき勅定があったけれども、固く辞し奉り、翌永正十三年春の花が散ると間もなく、四月の十三日というに、照雲上人を戒師と頼んで盧山寺において落飾し、法名堯空、逍遙院と号した。後世永く歌人の間に尊ばれた逍遙院内府の名は、これからして起こったのである。実隆は致仕以前からしばしば異様の服装で外出をしたもので、嵯峨の先塋《せいえい》に詣ずる時などは、三衣種子袈裟をもって行粧となしたとある。いかなる服装かまだ調べては見ないが、「十徳の体」と自分で日記に認《したた》めているから、大抵は想像される。実隆はこれ家計不如意のためにやむを得ずやった服装だといっているけれど、一には彼の好みでもあったらしい。日記永正五年六月十八日の条には、夜一条観音に参詣するのに、山臥《やまぶし》の体をしたとある。されば落飾後、平素黒衣を著し律を持したというのも、さもあるべきことで、これからして天文六年後の物故するまで全く遁世人の生活をなし遂げたのである。
普通尋常の一公卿を中心人物としての記述ならば、予が今まで説いただけでも、それすらすでに大袈裟に過ぎるので、その上にさらに呶々《どど》弁を弄する必要はないのであるが、事実上の主人公を三条西実隆にとった本篇においては、なお一回読者の忍耐を濫用しなければならぬ廉《かど》がある。それはほかでもない文筆殊に歌道の方面からしての宗祇およびその他との関係である。
当代能書の第一人として、禁裏からしばしば書写の命を受けたことは、前回にすでに述べたごとくであるが、彼の名の都はおろか、津々浦々のはてまでも永く記憶されたのは、一つにはその水茎の跡のかおりであって見れば、煩をいとわず今少しく彼の書について補いしるさんこと、必ずしも蛇足ではあるまい。実隆の入木道の妙を得、在来の御家流に唐様を加味した霊腕を揮ったことは、その筆に成れりという『孝経』によっても徴し得らるることであるが、彼が何人からしてこれを習い伝えたかは、予の不敏いまだこれを明かにしない。天稟にもとづいたことでもあろうが、必ずやしかるべき師もあったろう。あるいはまた古法帖などからして会得したところもあるかも知れぬ。とにかくに彼の能書であったことは、論をもちいぬのであるから、禁裏や宮方や武家の御用のほかに、随分と方々からの依頼があった。それにつれて[#「それにつれて」は底本では「それにつて」]筆屋や経師屋《きょうじや》の出入りも頻繁であった。経師では良椿|法橋《ほっきょう》というのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。諸所の注文により、先方へ出張して筆の毛を結ぶ職工である。彼らのある者は、たんに京都の得意を廻わって、筆を結びあるくのみならず、また田舎の巡業をしたものらしい。現に実隆の邸に出入した筆工のごとき、高野山の学僧だちをも得意としておったことは、実隆の日記にも見えている。筆工を喚んで筆を結ばす場合には、軸をばいずれから供給したか判明しないが、結ぶべき毛をば頼んだ方から差し出す。毛に狸毛と兎毛とあったことは今日と同様で、実隆に贈り物をする人の中には、気転をきかして兎毛を持ち込んだ者もあった。結び賃は、ハッキリとは知れぬけれど、享禄五年に実隆からして十六本の結び賃を筆工に払ったことがある。もちろん筆の種類によっても差等のあったことであろう。ただし当時における筆の供給が、一般にかくのごとき出張製造の方法によったかどうかは疑問である。おそらくは書道に心掛けのあって、特に筆に関して選り好みをし、かつ多く筆を需要した人に限って、かかる方法に出でたので、大方の人々は、筆屋の仕出し物で用を弁じておったこと、今日の需要者のごとくであったのかとも思われる。依頼によって実隆が揮毫する場合に、料紙をば多く依頼者の方からして差し出すこと、今日見る例と変わりがなかったらしい。依頼を受けた書の種類は一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土|双六《すごろく》の文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功を竣《おわ》ったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工を喚《よ》んでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢すでに七十五で、またと五十四帖を写すこともできず、その残り惜しさは推し測られる。
実隆の書はかくまでに広く上下に持てはやされたが、しかしながらその持てはやされたのは、たんに彼が上手な書家であったためばかりではない。彼の文藻があずかって大いに力あるのだ。彼は歌人であり、連歌師であるのみならずまた漢詩をもよくした。作者として抜群なのみでなく、『万葉』『古今』等の古典的歌集はもちろんのこと、そのほかに物語類、歴史類にもかなり通暁し、また漢籍の渉猟《しょうりょう》においても浅からざるものがあった。みだりに美辞麗句を連ぬるのみでなく、彼の思想の根柢には、浄土教より得たるところの遒麗と静寂とを兼ねたものがあった。慧信の『往生要集』、覚鑁の『孝養抄』、さては隆堯の『念仏奇特条々』等、念仏に関した書で彼が眼をさらした数も少なくはなかったが、甚深の感化を受けたのは、そのころ高徳の聖《ひじり》として朝野に深く渇仰された西教寺の真盛上人であった。実隆は宮中やその他において、上人の講釈説教等を聴聞したのみならず延徳三年の春三月の十五日には、わざわざ江州の西教寺に詣でて、上人から十念を授けられ、その本尊慈覚大師の作と称する阿弥陀如来を拝して、浅からぬ随喜|結縁《けちえん》の思いをなしたとある。かく上人との昵《なじ》みの深くなるにつれて、上人の来訪もあり、『円頓戒私記』の書写を頼まるることになったが、これも往生の縁というので、実隆は子細なく領状し、わずか二日間にその功を終えた。真盛上人との関係以外に、浄土宗信者としての実隆は、旭蓮社やその他の僧とも交りがあった。日記文明八年六月二十七日の条には、その日から日課として六万反の念仏を唱うることにしたとある。この日課はいつまで持続されたのか、その辺は知り難いけれど、とにかく彼は熱心な念仏の帰依者であったには相違ない、平素殺生戒を守ろうと念篤かったものと見え、明応六年の五月、薬用のために、庭上で土龍《もぐら》を捉えてこれを殺した時、やむを得ぬとはいえ、慚愧の念に堪えないと記している。明応六年といえば彼の遯世《とんせい》に先だつこと二十年である。しかるに当時すでにかくのごとくであったとすれば彼の遯世の決して世間一様のものでないことが知らるべきで、阿弥陀の尊像はいうまでもなく、土佐光茂に命じて画かしめた法然上人、善恵上人の両肖像は、彼の旦暮祈念をこらした対
前へ
次へ
全15ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング