にもちょっと述べた武人に利益分配することである。長享三年二月久しぶりで三千疋を受領した条に、南昌庵という者が坂本の扇屋で、これを斎藤から受け取ったが、「この儀については重々子細等あり、記すこと能わず」としてある。延徳二年七月の条には、「斎藤越後契約の間事いささかこれをつかわす」とあって、そのとき受け取った千六百疋の中から、何ほどかを与えている。これらの記事によって斎藤と三条西家との関係を伺い知ることができるので、かかる消息が通っておればこそ、斎藤越後守も時によっては、立替えをもなし、また用脚が到着するとわざわざ使者をもって受取人派遣の督促をなし、あるいはわざわざ太刀金二百疋の折紙持参でやって来て、実隆に謁することもあったのである。しかるに明応五年美濃の喜田城陥落し、土岐九郎は切腹、左京太夫は没落したので、この国衙料もまた不知行となること三十年ばかり、大永四年に至り持明院の周旋によりて、また納入さるることになった。
美濃国からは、国衙公用のほかに、なお三条西家の収入があった。一に宝田寺役、これはだいたい西園寺家のもので、三分の一だけ実隆の方に入ったのである。第二は鷲巣の綿の年貢である。
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