岐は来訪の旨を玄関でいい入れたまま、面会を得ずして帰ってしまった。美濃の土岐といえば、日本中に聞えた武家であるのに、実隆は取次の人がないというので、これに玄関払いを食わした。そのところちょっと当時の公卿が武家に対する態度が伺われる。しかしながら実隆ももちろん土岐を怒らすことをば好まなかったので、翌日すぐに使者を斎藤のもとへやって前日の土岐来訪の礼を述べ申しわけをした。そこで土岐も阪本に移ってから、三条西家に対しては疎略を存ぜぬ旨をいってよこしてある。
かくのごとくして国衙の徴収を成し遂げたので、その収入によりて、延徳元年の拝賀の費用をも弁じ、亡父公保の月忌、例会は都合あしく無沙汰にしたことも多くあったのに、この年はこれを執行し、また大工二人を呼んで家屋の小修繕をもやれば、旧借をも少々返却し、中沢や老官女以下の男女の召使の給金をも下渡し得たのである。しかしながら一年平均一万疋といえば、当時において少なからぬ大金である。それだけの大金を催促と少しばかりの音物とだけで、しかも三十年間不知行の後に、徴収し得たとは考えられない。実は別にもっと有効な方法を講じたのである。それはほかでもない、前回
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