太政大臣という官をば容易に将軍に許さなかったけれど、事実上の極位すなわち従一位をば、あまり惜しまずに与えた。義尚将軍はわずかに十九歳にしてこの極位に叙せられたが、これは摂関家ですらほとんどない例である。しかし内心公家は武家を軽蔑しておったので、武家に授ける官位をばあまり苦情をいわずに許したのは、武家なるが故に標準を別にしてもよいとの理由に基づくものであって、たとえていわばちょうど一しきり日本の留学生に対して、西洋の堂々たる諸大学が比較的容易に学位を授与した例があるのと似たもので、彼らの仲間内ではいつになっても官位をば苛《いやしく》もしなかったのである。つまり公家らはかくして武家の名聞《みょうもん》心を満足させてこれを喜ばすと同時に己らの品位をば保ち得るものと思ったのである。したがって武人の任官叙位の標準が鎌倉時代よりも高まったとて、公家がよく多く武家を尊敬したという証拠にはならず、公家の内心にはほとんど先天的とも評すべき軽侮心を武人に対して懐きつつあったのである。義政が文明五年の二月に参内して宮中の御酒宴に加わらんとした時に、「酒宴の事は内々之儀、男女混乱の間、外人は如何、」という理由
前へ
次へ
全144ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング