一揆が徘徊すると酒肴を出して御機嫌をとる向きもあったが、町内または知人らから竹木を集めて町の入り口に防禦の柵矢来を構うるやからもあった。いわゆる土倉の中には命よりも金銭を惜む輩もあって、刃を執って一揆等と渡り合い、夫婦共に非命の最期を遂げたという話もある。一揆は夜分こそこそ掠奪するのではなく、堂々と篝火を焚きて威嚇するのであったが、掠奪も多くは放火に終った。洛内の火災その半ばは彼ら一揆の仕業である。要するに一揆も群盗には違いがないが、一揆というほどに多勢でない群盗の横行もまた頻繁であった。したがって人殺しも珍しくない。下々の輩の気が荒くなって、何とも思わず乱暴を働く者の多かったこと勿論であるが、優にやさしかるべきはずの公卿も、殺伐の風に染みて、人を害することもあった。のみならずかく物騒なのは洛外も洛中と同じことで、大津や山崎との往来も折々は梗塞された。
 かく述べ来ると当時の京都の住民は、朝《あした》をもって夕《ゆうべ》を計り難く、恟々《きょうきょう》として何事も手につかなかったように想像されるが、実際はさほどにあわてて落ちつかぬ暮らしをしていたのではない。ノン気であったとはいえぬけれ
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