けだし宗匠なる名の濫觴《らんしょう》であろう。しかしてこの会所開きの会が長享二年四月の始めに催された。されば宗祇もその殊遇に感じ、将軍薨去の後、延徳二年三月に、故将軍すなわち常徳院殿のため、四要品を摺写し、十人ほどに勧誘して、和歌を詠ぜしめ、これを講じたことがあって、その時には実隆もその経の裏に歌を書いてやったとのことだ。これらから推しても、宗祇はその幕府との関係において、実隆の推挙によったのではないらしいが、『新撰菟玖波集[#「新撰菟玖波集」は底本では「新撰菟※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]波集」]』の修撰のことから延《ひ》いて、宗祇と宮廷との関係を生じたのは、これはひとえに実隆の取成しによったもののようだ。明応四年修撰に関して兼載との葛藤のあった際に、親王家に申し入れて、その御内意を宗祇に伝え彼を安堵《あんど》せしめたのは、すなわち実隆その人で、その際に宗祇は御蔭で胸襟愁霧を披《ひら》いたといっている。『新撰菟玖波集』二十巻がいよいよ出来上り、宗祇が肖柏、玄清、宗仲等を率いてことごとくこれを校訂し、九月十三日をもって恭しくこれを禁裏に奉献すると畏くも禁裏からは、御感の趣の
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