換言すればこの点において足利時代における一種の文化の代表者である。足利時代はその終りに至るまで、ついに『源語』的趣味の滅絶を見なかったが、実隆のごときはこれに与《あずか》って大いに力ある者であろう。
 実隆にとっては宗祇は師でもあり友人でもあったので、必ずしも彼に教えを仰ぐのみではなかった。前条に述べた研究会のごときはすなわちその一例であるが、歌道においても、宗祇の方からして実隆の批評を求むることもあった。文明十八年の暮に宗祇が独吟二十首を実隆に示して批評を求めたなどに徴してもわかる。その時に実隆はかれこれ批評すべきわけではないけれど、たっての要求故にやむを得ず厚顔至極をも顧みずして心底を述べておいたと、その日記に書いている。されば文明九年ごろからして始まったこの両人の交情は、普通の師弟関係とは異なり、宗祇が実隆に負うたところのものも、また決して少なからぬことであった。宗祇が室町殿に出入し、その連歌の会に臨んだのは、よほど以前からのことらしく、長享二年三月には義尚将軍からして連歌会所奉行を仰せ付けられた。これより以来この奉行人を時人呼んで宗匠と号したと、『実隆公記』に見えているが、これ
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