? その神は、自己の独子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて、未来永劫、自己に対する讃美歌を唄わせて、満足の意を表している神ではないか! そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、悉《ことごと》くこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。
教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、立所にその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍《ほうじ》することができると。若《も》しもそれが果して事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?
われ等の教うる神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄《みぶるい》して逃げ出し、人情が呆れて顔を反《そむ》けるような、そんな奇怪な神の存在をわれ等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以《ゆえん》である。
われ等が知る所の神、愛の神は断じてそんなものではない。その愛は無限、しかもすべてに対して一視同仁《いっしどうじん》である所の、正義の神である。そして神と人との中間には、多くの守護の天使達が存在し、それ等が神の限りなき愛、神の遠大なる意志の直接の行使者となるのである。此等《これら》の行使者があるから、そこに一分一厘の誤差も生じないのである。神は一切の中心であっても、決して直接の行動者ではないのである。
思え! 永遠の魂の所有者たる諸子は、不可解、不合理なる教義の盲目的信仰と、ただ一片の懺悔の言葉とによりて、単調無味なる天国とやらの権利を買い占めるのであろうか? 否々、諸子はただしばし肉の被物《ころも》に包まれて、より進歩せる霊的生活に対する準備を為すべく、地上に現れたる魂なのである。かるが故に、現世に於《おい》て蒔かれたる種子は、やがて成熟して、次の世界の収穫となる。単調無味な、夢のような天国が、前途に諸子を待っているようなことは断じてない。永遠の向上、永遠の進歩、これが死後の世界の実相である。
従って各自の行動を支配するものは、不可犯の法則である。善行は魂の進歩を助け悪行は魂の発達を阻止する。幸福は常に進歩の中に見出され、進歩につれて神に近づき、完全に近づいて行く。魂は決して安逸《あんいつ》懶惰《らんだ》を願わない。魂は永遠に知識の前進に対する欲求を棄てない。人間的慾情、人間的願望は肉体と共に失せるが、魂には純情と進歩と愛との伴える、浄き、美しき生活が続く。それがまことの天国なのである。
われ等は魂の内に存在する地獄以外の地獄を知らない。この地獄は不潔な劣情の焔《ほのお》によりて養われ、悔と悲の烟《けむり》によりて培《つちか》われ、過去の悪業に伴える、もろもろの重荷が充ちみちている。この地獄から脱出すべき唯一の途は、ただ踵《きびす》をかえして正道に戻り、正しき神の教に基きて、よき生活を営むことである。
無論死後の世界にも刑罰はある。されどそは、怒れる神の振り降ろす懲戒の笞《しもと》ではない。恥を忍び、苦痛を忍びて、自から積みあぐる善行の徳によりてのみ、償うことのできる自然の制裁である。御慈悲を願う卑劣な叫びや、オロオロ声を絞りての、偽懺悔《にせざんげ》などによって償うべくもないのである。
真の幸福を掴もうと思わば、道に協い、我慾から離れたる生活を、ただ一筋に儼守《げんしゅ》するのみである。幸福は合理的生活の所産であり、これと同様に、不幸は有形無形に亘る一切の法則の意識的違反から発生する。
われ等の遠き前途に就《つ》きては、われ等は何事も語るまい。何となれば、われ等も亦《また》それに就《つ》きて、何等知るところがないからである。が、われ等の現在に就《つ》きていえばそは諸子の送る地上の生活と同じく、不可犯の法則によりて支配され、幸不幸は、ただその法則を遵守するか否かによりて決せらるるのである。
われ等は今ここで、われ等の唱道する教義に就《つ》きて細説はせぬであろう。神に対し同胞に対し、又自己に対して守るべき人間の責務につきては、諸子もほぼ心得ているのである。他日諸子はこれに就《つ》き、更により多くを知るであろう。現在としては既成宗教のドグマと、われ等の教義との間に、いかに多大の径庭《けいてい》があるかを明かにしたのを以《もっ》て満足するとしょう。
諸子はわれ等の主張が、既成宗教の教条に比して、遥かに不定形、遥かに不透明であると思うであろう。が、われ等は、決して彼等の顰《ひそみ》に倣《なら》って実行不能、真偽不明の煩瑣《はんさ》極まる法則などは述べようとはせぬ。われ等の期するところは、より清く高き空気を呼吸し、より浄く、聖なる宗教を鼓吹し、より純なる神の観念を伝えることである。要するにわれ等は、飽まで不可知を不可知とし、苟且《かりそめ》にも憶測を以《もっ》て知識にかえたり、人間的妄想を以《もっ》て、絶対神を包んだりしないのである。われ等の歩まんとする道は、臆測よりは寧《むし》ろ実行、信仰よりは寧《むし》ろ実験である。われ等はこれが智慧により、神によりて導かるるところの、正しき道であると信ずる。思うに我等の教は懐疑者によりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、又頑冥者流によりて異端視されるであろう。しかし乍《なが》ら真の求道者は、われ等の教によりて手がかりを獲、真の信仰者はわれ等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、そして縦令《たとえ》千歳の後に至るとも、この教の覆ることは絶対にないと信ずる。何となればわれ等の教は、飽くまでも合理的の推理と、合法的の試験とに堪《た》えるからである。
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(評釈) 神霊主義の真髄は、ほぼ遺憾《いかん》なくここに尽されている。現世と死後の世界がつながりであること、両者が飽までも大自然の法則の支配下にあること、『神』は最高最奥の理想的存在であって、神律の実際の行使者は、多くの天使達であること、幸と不幸との岐れ目は、有形無形の自然律を守るか、守らぬかによりて決すること、神霊主義は正しき推理と、正しき実験との所産であるから、永遠に滅びないこと――それ等の重要事項が、なかなか良く説かれて居る。今後人類の指導原理――少くとも具眼有識者の指導原理は、これ以外にある筈がないであろう。
就中《なかんずく》私がここで敬服措かないのは、『天使』につきての大胆率直なる啓示である。無限絶対の『神』又は『仏』のみを説きて、神意の行使者たる天使の存在を説かない教は、殆《ほとん》ど半身不随症に罹《かか》って居る。無論ここにいう天使は、西洋式の表現法を用いたまでで、日本式でいえば八百万の神々である。くれぐれも読者が名称などに捕えられず、活眼を開いて、この貴重なる一章を味読されんことを切望する。
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第十一章 審神の要訣
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問『あなた方の所説は、甚《はなは》だ合理的とは考えられるが、千八百年に亘《わた》りて、われ等の心胸に浸み込まされた信条の放棄は、非常な重大事である。願くばもっと明確な証左《しょうさ》を御願いしたい。』
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宗教の真義[#「宗教の真義」に白丸傍点]――友よ、汝の熱心な疑惑は、われ等にとりて、この上もなき福音である。単なるドグマに捕えられず、飽《あく》まで合理的に真理を求めんとする心掛《こころがけ》――それでなければ神慮《しんりょ》には協《かな》わない。われ等は心から、そうした態度を歓迎する。われ等の最も嫌忌《けんき》するのは、そこに何等の批判も考慮もなしに、ただ外面のみを扮装した、似而非《えぜひ》人物の似而非《えぜひ》言論を鵜呑みにせんとする、軽信《けいしん》家の態度である。われ等はかかる軽信《けいしん》家の群に対して、言うべき何物もない。同時にわれ等の手に負えぬは、かの澱《よど》める沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者《もちぬし》である。われ等の千言万語も、遂に彼等の心の表面に、一片の漣波《さざなみ》さえ立たせ得る望みはない……。
さて汝の提出した疑問――われ等としては、これに証明を与えるべく全力を傾けるであろうが、ある地点に達した時に、それ以上は、いかにしても実証を与うることが不可能である。汝も熟知するとおり、われ等は到底打ち勝ち難き、不利な条件に縛られて居る。われ等はすでに地上の住人でない。かるが故に、人間界の法廷に於《おい》て重きを為すような、証拠物件を提示し難き場合もある。われ等は、只《ただ》吾等の力に及ぶ証明を以《もっ》て、汝等の考慮に供するにとどまる。これを採用すると否とは、偏《ひとえ》に汝等の公明正大なる心の判断に任せるより外に道がない。
われ等の所説を裏書するのには、或《あ》る程度まで、霊界に於けるわれ等の同志の経歴を物語るより外に途がない。これは証明法として不充分であるが、何とも他に致方がないのである。われ等は、地上生活中の自己の姓名を名告り、そして自己と同時代の性行《せいこう》閲歴《えつれき》につきて、事こまやかに物語るであろう。さすれば、われ等が決してニセ物でないことは幾分明白になると思う。事によると、汝はそれ丈の証明では不充分であるというかも知れぬ。成るほど狡獪《こうかい》なる霊界人が、欺瞞の目的を以《もっ》て、細大の歴史的事実を蒐集《しゅうしゅう》し得ないとは言われない。が、到底|詐《いつわ》り難きは、各自に備わる人品であり風韻《ふういん》である。果実を手がかりとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教うる所である。刺《とげ》のある葡萄《ぶどう》や、無花果《いちじく》はどこにもない。われ等が、果して正しき霊界の使徒であるや否やは、われ等の試むる言説の内容を以《もっ》て、忌憚《きたん》なく批判して貰いたい。
これ以上、われ等は此《この》問題《もんだい》にかかり合っているべき勇気を有《も》たない。われ等の使命は、地上の人間の憐憫《あわれみ》を乞うべく、あまりにも重大である。われ等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、われ等はわれ等の与うる証明が、得心のできる日の到来を心静かに待つであろう。われ等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ……。
われ等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想《びゅうそう》である。人間はしきりに各自見解に重きを置こうとするが、われ等の眼から観れば、そうしたものは殆《ほとん》ど全く無価値である。人間の眼は、肉体の為めに蔽われて、是非善悪を審判する力にとぼしい。霊肉が分離した暁《あかつき》に、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、われ等の眼を以《もっ》て観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少くない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根柢《こんてい》に於《おい》て、格別|異《ちが》ったものでもないことが、われ等の眼にはよく映るのである。
友よ! 宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微《いんび》不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘なる智能の範囲内に於《おい》て、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的|揣摩臆測《しまおくそく》や、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、あわれなるものどもを苦しめ、惑わせ、かれ等をして、ますます無智と迷信の雲霧《うんむ》の中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧――これ等《ら》はいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、もともと彼等は、暗中に摸索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従ってわれ等の眼から観れば、多くの点に於
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