霊訓
SPIRIT TEACHINGS
W・S・モーゼス William Stainton Moses
浅野和三郎訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嶄然《ざんぜん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)要所|丈《だけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
−−

    目次

解説
第一章 幽明の交通[#「幽明の交通」は底本では「幽明交通」(本文は「幽明の交通」)]とその目途
第二章 健全な生活
第三章 幽明間の交渉
第四章 各種の霊媒能力
第五章 幽明交通と環境
第六章 夫婦関係
第七章 真の宗教
第八章 神霊主義
第九章 啓示の真意義
第十章 進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
[#改ページ]

      解説

 近代の霊媒中、嶄然《ざんぜん》一頭地を抽《ぬ》いて居るのは、何と言ってもステーントン・モーゼスで、その手に成《な》れる自動書記の産物『霊訓《スピリットティチングス》』は、たしかに後世に残るべき、斯界《しかい》のクラシックである。日本の学会に、その真価が殆《ほとん》ど認められていないのは、甚《はなは》だ遺憾《いかん》である。が、原本はなかなか大部《たいぶ》のものであるから、爰《ここ》には単に要所|丈《だけ》を紹介するに止める。若《も》しも読者にして、ゆっくり味読《みどく》さるるならば、其《そ》の分量の少なきを憂えず、得るところ寧《むし》ろ甚《はなは》だ多かるべきを信ずるものである。
 近代の霊媒の中で、モーゼスの如《ごと》き学者的経歴を有する者は、殆《ほとん》ど一人もない。彼は一八三九年に生れ、十六歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。一八五八年|牛津《オックスフォード》大学に移るに及びて、其《その》英才はいよいよ鋒鋩《ほうぼう》を現したが、過度の勉強の為めにいたく心身を損ね、病臥《びょうが》数月の後、保養のために大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスの希臘《ギリシア》僧院で暮らし、専《もっぱ》ら静思《せいし》休養《きゅうよう》につとめた。後《のち》その司配霊イムペレエタアの告ぐる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為めであったとの事である。
 二十三歳の時帰国して学位を受け、やがて牛津《オックスフォード》を離れたが、健康が尚お全くすぐれない為めに、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま疱瘡《ほうそう》が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当り、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ぬる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を贏《か》ち得たが、健康が許さないので、一八六八年他の教区に転任した。彼は何所へ行っても、すぐれた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止むなく永久に教職を擲《なげう》つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
 彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、一八七〇年の暮で、爰《ここ》でも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望《よぼう》の中心たらしめた。モーゼスが心霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、頻《しき》りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心は飽くまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の鋭利《えいり》直截《ちょくさい》なる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。即《すなわ》ち一八七二年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、つづいて名霊媒ウィリアムスの交霊会にのぞみ、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中|不図《ふと》したことで、彼自身霊媒能力を発揮した。
 モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起った、主なる心霊の現象を挙ぐれば、(一)大小の敲音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六)卓子《テーブル》、椅子其他物品の浮揚、(七)物品引寄、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることができる。
 かかる霊媒現象が起りつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、殊《こと》に一八八二年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又一八八四年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚お刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。
 彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後までつづいた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為めに、回復し難き迄に衰弱し、かくて一八九二年、(明治二十五年)九月五日を以《もっ》て帰幽した。
 右の如く、彼の経歴には、さして非凡というほどの事もないが、しかし彼のすぐれた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、まことに驚嘆に値するものがあった。彼は如何《いか》なる問題でも、之《これ》を吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。就中《なかんずく》彼が畢生《ひっせい》の心血を濺《そそ》いだのは心霊問題で、之《これ》が為めには、如何《いか》なる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学会、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一切の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。
 一個の人格者としてのモーゼスも、又|間然《かんぜん》する所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にも富《と》んでいた。彼はいかなる懐疑者、煩悶者《はんもんしゃ》をも、諄々《じゅんじゅん》として教え導くにつとめた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、漸《ようや》く堅実なる地歩を、天下に占《し》むるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれ丈《だ》け与《よ》って力あるか測り知れないものがある。彼は正しく斯界《しかい》の権威であると同時に、大恩人でもあった。
 さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大《さいだい》を物語っているから、参考の為めに、その要所を抄出《しょうしゅつ》することにする。――
[#ここから1字下げ]
『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆を執《と》るか、若くは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆も使わずに、文字が直接紙面に現れるのである……。
『此等《これら》の通信は今から約十年前、一八七三年の三月三十日を以《もっ》て、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、いろいろの通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為めにも都合がよいので、特に之《これ》を選んだ次第である。敲音《ラップ》を以《もっ》て一字ずつ書き綴るのは煩《わずら》わしきに過ぎ、又|入神状態《にゅうしんじょうたい》に於《おい》て口で喋《しゃべ》るのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の闖入《ちんにゅう》を、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。
『私は一冊の手帳を求め、平生《へいせい》これを懐中《かいちゅう》して居るようにした。そうすると霊気が浸潤《しんじゅん》して、筆の運びが迅《はや》いからである。敲音なども、平生《へいせい》使い慣れた卓子《テーブル》には早く起り、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起り易いものである……。
『最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意して居るのであった。さもないと、すべてが混乱して、まとまりがつかないものになった。
『が、しばらく過ぎると、そんな必要は漸《ようや》く消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いて置くと、之《これ》に対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷に附《ふ》しても差支えないのであった。神《ゴッド》という字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかの如《ごと》く、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取扱わるる題目《だいもく》は、悉《ことごと》く高尚《こうしょう》純潔《じゅんけつ》なものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の指南車《しなんしゃ》としてよいものばかりであった。自動書記は一八八〇年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、洒落《しゃれ》とか、野鄙《やひ》な文句とか、頓珍漢《とんちんかん》な理窟とか、嘘や出鱈目《でたらめ》とかは、私の知れる限りに於《おい》て、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。
『初期の通信は、前にも言った通り皆《みな》細字《ほそじ》で書かれ、其《その》書体も均一で、Doctor, The Teacher, と署名してあった。この司配霊の手蹟《しゅせき》はいつも同一で、一見その人と知ることができた。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪廓を有《も》っていた。
『そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆蹟、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆蹟だけ一瞥《いちべつ》すれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。
『他界の居住者中には、直接私の手を使うことができず、レクタアと称する霊をして、代筆せしむるものも少くないのであった。蓋《けだ》しレクタアは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信もまとまりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクタアが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者が親《みずか》ら筆を執るのであった。
『但し、本書に収録された通信は、全部がイムペレエタアから出発し、そしてレクタアがその写字生をつとめたものである。他の場合、殊《こと》に通信の後期五年間に於《おい》ては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を寄越《よこ》した。
『通信を受取る時の状態は種々雑多《しゅじゅざった》であった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなるほど、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。
『最初|此等《これら》の通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当り、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。爰《ここ》に発表したものには全部個人関係の通信が省かれて居る。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは如何《いかん》ともすることができない。活字に附《ふ》せられたものは、未発表の部分の単なる標本として之《これ》を取扱い、他日《たじつ》全部公開の機会の到来を待つ
次へ
全11ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
モーゼス ウィリアム・ステイントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング