より外に途《みち》がない。
『私自身の観念が、果してこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究課題である。私としては、その防止に全力を尽した。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は依然《いぜん》警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物を繙《ひもと》いて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害なしに、規則正しく現れた。斯《こ》うして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に気焔万丈《きえんばんじょう》、行文《こうぶん》の妙を極むるのであった。
『が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、たしかに此等《これら》の通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合に於《おい》て、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査して見ると、これ等《ら》は悉《ことごと》く正確であることが確かめられた……。
『私には、此等《これら》の書きものに対して、何等《なんら》の命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起らないのである。私は出所不明《しゅっしょふめい》の突然の衝動に駆られて、静座して筆記の準備をやる。それが連続的に現れる場合には、私は通例《つうれい》早起して、毎日の最初の時間をそれに宛てる。室《へや》はいつも祈祷に用いる専用のものである。すると多くの場合に通信が現れるが、しかし必ずしも当てにはならない。他の形式の現象が起ることもある。健康状態が面白くないと、無現象のこともあるが、そんなことはめったに起らない。
『イムペレエタアと[#「イムペレエタアと」は底本では「インベレクタアと」]称する霊からの通信の開始は、私の生涯に一新紀元を劃《かく》するものである。それは私にとりて、精神的再生を遂げしめた教育期間で、爾来《じらい》、私はいかに懐疑的空想に耽《ふけ》ることがあっても、心からの疑惑に陥るようなことがなくなった……。
『此等《これら》の通信の現れた形式などは、深く論ずるにも足りないであろう。その価値を決するものは、主としてその内容如何である。それは果して宇宙人生の目標を明かにし、永遠不朽の真理を伝えているか否か?……恐らく多数人士にとりて、此等《これら》の通信は全然無価値であろう。何となれば、その中に盛られた真理は、彼等には真理でないからである。他の一部の人達にとりて、此等《これら》の通信は単に珍らしいものというにとどまり、又或る人達の眼には、単なる愚談と映《えい》ずるであろう。私は決して一般の歓迎を期待して、本書の刊行をするものではない。私はただ本書を有益と考えられる人達のお役に立てば、それで満足するものである。』
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 以上モーゼスの述べた所によりても明白である通り、『霊訓』中に収められてあるのは、原本の一部分に過ぎない。近年『霊訓』続篇が出版されたが、これも一小部分である。原本の大部は、目下《もっか》英国心霊協会に保存されて居る。
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      第一章 幽明の交通とその目途

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問『現代はいかなる時か?』
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 新時代の黎明[#「新時代の黎明」に白丸傍点]――格別の努力が、今や真理の普及に向って払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に[#「同時に」は底本では「同蒔に」]、今も昔と同じく、他方に於《おい》てこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟《ひっきょう》、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向って行われる。無論両者の争闘《そうとう》は、時代によりて消長《しょうちょう》を免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を集結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれが為めに影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、禍《わざわい》なる哉《かな》である。真理を求むる者のみが、大盤石《だいばんじゃく》の上に立って居る。
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問『いかにして真理を掴むか。』
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 心の準備[#「心の準備」に白丸傍点]――真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧《ちえ》を授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以《ゆえん》である。
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問『心の迷、実証の困難、僻見《へきけん》の跋扈《ばっこ》等をいかにすべきか? 果してこれ等《ら》の故障に打勝ち得るか?』
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 最後の必勝[#「最後の必勝」に白丸傍点]――人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな! そうしたものは絶対に存在せぬ。われ等が過去に於《おい》て嘗《な》めたところに比ぶれば、現代の苦艱の如《ごと》きは抑々《よくよく》物の数でない。われ等の生活せるローマ帝政時代の末期――精神的、霊的のものは悉《ことごと》く影を潜めて、所得顔《ところえがお》に跋扈《ばっこ》するは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情……若《も》し汝《なんじ》にしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切る如《ごと》き絶望の冷たさ、咫尺《しせき》を弁ぜぬ心の闇、すべてはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降すの術《すべ》なく、覚《おぼ》えず眼を掩《おお》いて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。すべてが道徳を笑い、天帝を嘲《あざけ》り、永生を罵《ののし》り、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることを以《もっ》て人生の快事とした。その形態は正《まさ》に人間であるが、その心情は、遥《はる》かに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか! これに比すれば、現代の堕落の如《ごと》きは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。
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問『人類の無智と頑陋《がんろう》との為めに、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺して居る。今回も又その轍《わだち》をふまぬか?』
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 真人の出現[#「真人の出現」に白丸傍点]――神の恩沢《おんたく》は汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現代とても在来の経典を以《もっ》て満足し、更に一歩を進めて真理の追窮《ついきゅう》に当ろうとする、気魄《きはく》のとぼしき者は多いであろう。それ等に対してわれ等は頓着《とんじゃく》せぬ。が、過去の示教《しきょう》に満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望を医《いや》せんとする好学の士も、亦《また》決して尠《すくな》くない。われ等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第次第に四方に伝播《でんぱ》し、やがて高山の頂巓《ちょうてん》から、世界に向って呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の児達が、大地の下層より蹶起《けっき》して、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、爰《ここ》に神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在|汝等《なんじら》を悩ます痴愚《ちぐ》も、不信も、罪悪も、虚偽も皆《みな》跡方もなく一掃せられて了《しま》うであろう。
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問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』
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 天啓は皆同根[#「天啓は皆同根」に白丸傍点]――天啓は皆《みな》神から出る。或《あ》る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。すべては皆《みな》真理の啓発を期図《きと》したものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということはできぬ。両者が矛盾するが如《ごと》く見ゆるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、皆《みな》人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することができず、或《あるい》は注釈を以《もっ》てこれに混ぜ、或《あるい》は推理推論を以《もっ》て之《これ》を包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着《どうちゃく》、虚妄、愚劣の不純分子を以《もっ》て充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、先《ま》ず以《もっ》て、旧《ふる》い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃蕩《そうとう》するの必要に迫られる。先《ま》ず以《もっ》て破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着《どうちゃく》はない。ただ真理を包める人為的附加物《じんいてきふかぶつ》は、之《これ》を除去せねばならぬのである。その際《さい》人間は、飽《あく》まで己れに内在する理性の光りで、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見《へきけん》に富める者が、いかに排斥するとも、向上心にとめる魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的|黎明期《れいめいき》に於《おい》ては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔に於《おい》てもそうであったが、現代に於《おい》てもそうである。聖者モーゼスは、果して自国民族からさえも一般的承認を獲《え》たか? 昔の予言者達は、果して世に容《い》れられたか? イエスは何《ど》うか? ポーロは何《ど》うか? いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を[#「喝采を」は底本では「喝釆を」]博したか? 神は変らない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者は之《これ》を排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、爰《ここ》に初めて真人《しんじん》と、偽人《ぎじん》との選り分けができる。それ等は皆《みな》不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈《しれつ》であると覚悟せねばならぬ。が、汝《なんじ》は須《すべか》らく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往邁進《ゆうおうまいしん》せねばならぬ。
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問『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』
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 指導霊の性質[#「指導霊の性質」に白丸傍点]――指導霊と、その指導を受くる人物とは、通例ある不可分《ふかぶん》の因縁関係を以《もっ》て結ばれている。が、時にその例外がないでもない。或《あ》る霊は、人間の指導が巧みである為めに特に選抜される。或《あ》る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。或《あ》る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人に附《つ》けられる。又|或《あ》る霊は、理想型の人間を造るべく、自から進んで現世に降《くだ》ることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行の為めに、求
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