めて手にあまるような難物の指導を引き受け、一歩一歩に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引きつけられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行われる。
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問『地上に降《くだ》る霊達は、いかなる階級に属するか?』
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 普通は下級霊[#「普通は下級霊」に白丸傍点]――通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等は甚《はなは》だ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少くないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇《ちゅうちょ》するのである。かるが故《ゆえ》に、霊界通信には玉石混淆《ぎょくせきこんこう》の感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意に然《しか》るにあらずして、しばしば力量の不足に基因《きいん》する。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第にわれ等の掌裡《しょうり》に握られて行くであろう。
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問『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』
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 神と人との敵[#「神と人との敵」に白丸傍点]――我等の使命に対して、絶えず反抗的態度を執《と》りつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡知《こうち》猾才《かっさい》にとめる邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽して、われ等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動は甚《はなは》だ敏活、巧みにわれ等の事業を摸倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべくつとめるから、其《その》伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。われ等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。
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問『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感に堪《た》えない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』
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 悪霊の存在[#「悪霊の存在」に白丸傍点]――善を捨てて、悪に走るほど慨歎《がいたん》すべきものはない。汝《なんじ》は優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、而《し》かもそは毫《ごう》も怪むに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚《こうしょう》、習慣、反感等、生前死後を通じて、毫《ごう》も変るところがない。変る所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界を脱《のが》れたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操《しそう》の確実なるもの、向上心の強きものは、死後に於《おい》て、決して悪魔の徒弟とはならない。汝《なんじ》がこれしきの真理を会得せぬこそ、寧《むし》ろ意外である。すべては儼然《げんぜん》たる因果の理法の現れで、金は飽《あく》まで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。就中《なかんずく》畏《おそ》るべきは習癖《しゅうへき》の惰力である。習癖《しゅうへき》は深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一たん肉感肉慾の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類を以《もっ》て集まるのであるから、施《ほどこ》す術《すべ》がないのである。かるが故《ゆえ》に、われ等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟《かいご》と、高級霊の指導と、又一歩一歩に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するが如《ごと》き思想は、実に人類を誘惑せんが為めに、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。
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問『魔群にも一人の司配者があるか?』
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 すべては神界の統治下[#「すべては神界の統治下」に白丸傍点]――魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道《しょうどう》するが如《ごと》き、大魔王と言ったものは存在せぬ。すべての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わず悉《ことごと》く神界の統治下に置かれて居る。
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(評釈) 本章説く所は、大体平明で、穏健であるから、さして評釈の必要もないと思うが、初学者の為めに、念の為めに二三の注意を試みることにする。
『真人の出現』の条下に於《おい》て、数十年前に予言されたことが、現在に於《おい》ていよいよ地上に出現しつつあることは驚歎すべきである。今や世界全土に亙《わた》りて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後一番後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しになった日本国でも、最早《もはや》その傾向が顕著になった。慾《よく》にはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。
『指導霊の性質』条下には、指導霊とその指導を受くる人間との、深い因縁を説いているが、今日われわれが心霊実験を行えば行うほど、それが真理であることを発見する。与うる者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるが故《ゆえ》に人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人《せじん》断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。
『悪霊の存在』の条下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、のべてあるのは至言である。『悪』とはつまり『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後には皆《みな》浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でも悉《ことごと》く神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘《そうとう》の如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、亦《また》飛んでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混淆《ぎょくせきこんこう》の差別の世界で、寸刻《すんこく》の油断もできない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起るのである。初学の士は最初|成《な》るべく学識経験の積んだ指導者に就《つ》きて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。
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      第二章 健全な生活

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問『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』
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 真の仁者[#「真の仁者」に白丸傍点]、真の哲人[#「真の哲人」に白丸傍点]――真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けて居る、まことの人物、まことの神の子である。又《また》真の哲人とは、知識の為めに知識を愛する、これも亦《また》まことの人物、まことの神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡《きょうり》に、地上一切の人類を包擁《ほうよう》せずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことを以《もっ》て、畢生《ひっせい》の念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々《おうおう》仁者の偽物がある。それ等は自己に迎合《げいごう》阿附《あふ》する者のみを愛し、これに金品を与えて虚名《きょめい》を博すべく努力する。
 それから真の哲人――彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえども吾《われ》行かんの概《がい》を以《もっ》て、宇宙間の隠微《いんび》を探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の宝蔵は無限であるから、彼は毫《ごう》も材料の枯渇を患《うれ》うるには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の宝、世にも幸福なるは、まことの哲人の生涯である。
 以上二つの結合――仁者と哲人との結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遥かに進歩が迅速である。
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問『生命は永遠?』
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 永遠の生命[#「永遠の生命」に白丸傍点]――然《しか》り、われ等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由を有《も》つ。が、生命にはたしかに二つの階段がある。外でもない、それは向上[#「向上」に傍点]と黙想[#「黙想」に傍点]との二つである。われ等はまだ向上の途中に在る。われ等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従ってわれ等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来に於《おい》て、われ等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に浴しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、われわれは何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、蓋《けだ》し早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入口――死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。
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問『あなたは地上に居た時よりも、神に就《つ》きて多くを知るか?』
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 神の働き[#「神の働き」に白丸傍点]――われ等は、地上生活中に於《お》けるよりも、遥かに多く神の働きにつきて知ることができた。死後の世界に於《おい》て、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量《むりょう》無辺際《むへんさい》であることが判って来たのである。が、われ等の神につきての知識は、それ以上には出《い》でない。今後に於《おい》ても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態にとどまるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。
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問『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい。』
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 非命の死と罪悪[#「非命の死と罪悪」に白丸傍点]――地の世界には、週期的に争闘が起るものであるが、霊的眼光を以《もっ》てこれを考察すれば、畢竟《ひっきょう》それは善悪の霊と霊との争闘である。すべて世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間に於《おい》て忿怒《ふんぬ》に充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼《あっき》夜叉《やしゃ》の状態に置かれて居る。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱《からん》の種子を蒔く。
 一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と憎念とに充ちたままで、幽界生活に突入するほど危険なことはない。天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力
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