を以《もっ》て断ち切ってはならないのである。故に死刑ほど愚なる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴ばれさせるは愚である。すべて地上の人達は、いかに犯罪人を取扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けて居る。犯罪者は須《すべか》らく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に浴しつつ、善霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。然《しか》るに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することが能《で》きよう! 犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。然《しか》るにそれ等が、一たん獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一たび肉体を離れたとなれば、縦横無碍《じゅうおうむげ》に、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることができる。
嗚呼《ああ》盲目なる哉《かな》地上の人類、汝等《なんじら》は神の名に於《おい》て過《あやまち》を犯せる人の子の生命を断ちつつある。思え! 殺された者の霊魂が、汝等《なんじら》に対して、復讐の念を燃やさずに居ると思うか! 汝等《なんじら》がかかる非行を演ずるは、畢竟《ひっきょう》神の何者たるかを知らぬからである。汝等《なんじら》の所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に坐り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気にめさぬものがあれば、片っ端から之《これ》を傷け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等《なんじら》の所謂神である。
まことの神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間の何所《どこ》にも居ない。それはただ人間の浅墓《あさはか》な心にのみ存在する。
然《しか》り、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然|誤謬《ごびゅう》と無智との産物である。
若《も》しそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。われわれ霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続《りくぞく》として肉体から離れて幽界へなだれ込む。すると其所《そこ》には、残忍性にとめる在来の堕落霊どもが、雲霞《うんか》の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層《そういっそう》罪と、汚れの地獄と化して行く……。そしてかかる惨劇の起る動機はと問えば、多くは地上の権力者の只《ただ》一片の野心、只《ただ》一場《いちじょう》の出来心に過ぎないのである。
嗚呼《ああ》友よ! 地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先《ま》ず、まことの神と、まことの神の為めに働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或《あるい》はわれ等の示教に対して、侮蔑の眼を向くるであろうが、それ等はしばらく後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しとし、智慧の教を受け入るることを好む進歩的頭脳の所有者に、われ等の霊界通信を提示して貰いたい。必ずや何等《なんら》かの効果があるに相違ない。尚お盲目者流の為めにも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願をささげて貰いたい。
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(評釈) 極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所《ところ》頗《すこぶ》る簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二段階に分け、われ等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かの印度思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊《ひゃくへい》ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰《ごくつぶ》しが、一人出来上る丈《だけ》である。日本国民は、一時も早くそんな陋態《ろうたい》から蝉脱《せんだつ》して、一歩一歩向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行詰等を歎息《たんそく》するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由《よ》って来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なる哉《かな》地上の人類』と一喝されても、まことに致方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚お無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度も甚《はなは》だ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底|碌《ろく》な考えの浮ぶ筈がない。私は衷心《ちゅうしん》から、日本国民よ、何所《どこ》に行くと叫びたい。
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第三章 幽明間の交渉
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問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
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現代立法の不備[#「現代立法の不備」に白丸傍点]――汝《なんじ》が頭痛を覚えたのは、畢竟《ひっきょう》われ等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行われたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当りては、われ等とても、勢い多少の昂奮《こうふん》を免れない。天授の神律《しんりつ》に対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯《たいく》に対する顧慮を失い、図らずも汝《なんじ》に苦痛を与えることになった。今度はつとめて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
さるにても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、又《また》復讐的激情の所産である。そして其《その》結果は如何《いかん》? 麗わしき神の御業《みわざ》は、無残にも脚下に蹂躙《じゅうりん》せられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉の聖《きよ》き羈《きずな》は断たれ、幾千幾万の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落され、大地の上は、至る所に屍《しかばね》の山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されずに、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、万《よろず》の災厄《わざわい》は、すべてここに萌《きざ》すのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々たるを免れない。
どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとがなかなかに多い。
例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。然《しか》るに現代の法律が、霊媒に対する罰則の如《ごと》きは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論《もちろん》良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与うべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正に帰《き》せしむべきである。然《しか》るに何等《なんら》玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做《みな》して、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。われわれの側から観れば、かの堕落せる酔漢の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入する不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢の躯《からだ》に憑り、鬼畜にひとしき堕落行為に出《い》でしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。然《しか》るに現代の法律は、平然として此等《これら》酔漢に対して、一指を染めようとしない。
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問『酔漢の躯《からだ》に憑るとは何の意義か?』
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悪霊の憑依[#「悪霊の憑依」に白丸傍点]――地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情慾と、性癖の大部分をそのまま保有して居る。彼等の体的欲望は、毫《ごう》も消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶《はんもん》焦慮《しょうりょ》する点である。凡《およ》そ世に充たされざる渇望ほどつらいものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛を医《いや》すべく、昔|馴染《なじみ》の魔窟に出入して、恰度《ちょうど》自分に誂向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内にくぐり込んで、酒色の慾を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、斯《か》くして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論《もちろん》ただ堕落の一路を辿り、一歩一歩、ぬきさしならぬ泥濘《でいねい》の深みにはまり込んで行く。その間彼のあわれなる妻子は、飢えたる腹をかかへて、言い知れぬ悲嘆の泪に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするに由《よし》なく、ただ空しく、遠方から淪落《りんらく》の痴漢の暗き行末を、あわれみの眼もて見送るより外に、せん術《すべ》がないのである。
この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶を期し難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又《また》真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第次第に剪除《せんじょ》されて行くのみである。地上の人類が、現在の如《ごと》き非合理的法律を墨守《ぼくしゅ》して居る限り、先《ま》ず改善の見込は絶無であろう。
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問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
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貴重なる地上生活[#「貴重なる地上生活」に白丸傍点]――否、地上生活の経験は、甚《はなは》だ貴重なもので、断じて之《これ》を度外視することはできない。無論小供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為めの境涯、所謂練獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、之《これ》を死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えて居て、彼等の求むる所を遺憾《いかん》なく充たすのである。地上生活を短かく切り上ぐる事は、決して本人の利益ではない。強いていえば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中《しろくじちゅう》些《いささか》の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を儼守《げんしゅ》することである。そうした魂には、汚染の分子が少いから、従って進歩が迅《はや》い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、すべての種類の怠慢と懶惰《らんだ》、又《また》何等《なんら》かの形で行わるる放縦《ほうじゅう》と我儘《わがまま》――これ等《ら》は皆《みな》向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛[#「愛」に丸傍点]と知識[#「知識」に丸傍点]の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非とも之《これ》を教育の力に待たねばならぬ。夭折《ようせつ》せる小児の
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