教育の一手段としては、しばしば之《これ》を霊媒の躯《からだ》につけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点に於《おい》て損失を受け、他方純情の点に於《おい》て利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。いわゆる艱難《かんなん》汝《なんじ》を珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後に於《おい》て特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当り、以《もっ》て何等《なんら》かの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、皆《みな》何等《なんら》かの使命、又《また》何等《なんら》かの目的があり、斯《か》くして向上進歩を遂げんとするのである。
霊的慾求はただ一つ[#「霊的慾求はただ一つ」に白丸傍点]――より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣《ざんさ》はきれいに洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向って、ただ上へ上へと進んで行くのである。
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(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。若《も》しそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、まことに活眼達識の士にして、初めて道破《どうは》し得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土《えど》と罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうとあせる夢遊病患者に対して、絶好の戒飭《かいちょく》である。
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第四章 各種の霊媒能力
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問『いかなる人物が、霊界の機関たるに適するか?』
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霊界の求むる人格[#「霊界の求むる人格」に白丸傍点]――霊媒能力が種々雑多に分れることは、わざわざ断わるまでもあるまい。或る種の霊媒は、単にその一種特別の体質の為めに選ばれる。つまりそれ等の人達の肉体組織が、外部的客観的の霊的表現を行うに適当しているのである。彼等は精神的には殆《ほとん》ど何等の能力もない。たまたま背後の支配霊達が、何等《なんら》かの通信を行うことはありても、その内容は通例|末梢《まっしょう》的の些事《さじ》にとどまり、時とすれば取るに足らぬ囈語《げいご》やら、とり止めのない出鱈目《でたらめ》やらでさえもある。この種の霊媒は、専ら霊の存在を証明する為めに用いられる。肉眼には見えない他界の居住者が、彼等の肉体を利用して、客観的の現象を作製することができるからである。
要するにこの種の霊媒は、初歩の心霊現象を作る為めの機関に過ぎない。が、そうかと言って、彼等の仕事がつまらないということにはならない。信仰の基礎工事は、実に彼等によりて築かれるのである。
それから又一部の霊媒達は、その性質が善良で慈悲深い為めに、霊界の選抜に与《あず》かる彼等は多くの場合に於《おい》て、物理的心霊現象の用具とはなり得ない。又最初は、霊界との意識的の通信さえも為し得ない。が、彼等の素直な性質は、霊的感化を受け易く天使達の監視の下に、その純情が驚くべく開発されて来る。その結果、次第に意識的に、霊界通信を行い得るようにもなり、又|或《あ》る程度の霊視能力を恵まれて、折ふし他界の状況を瞥見《べっけん》することにもなる。彼等の背後に控えて働くのは、通例|或《あ》る情深《なさけぶか》い霊的存在で、印象的に、絶えず必要な指導を与える。斯《こ》うした人達は、いつも愛と平和の清き雰囲気の裡に包まれ、生きては輝かしき人間の模範と仰がれ、死すれば直ちに安息の境地に迎えられて、平和の真光《まひかり》に浴するのである。
それから又他の霊媒達は、理知的に発達を遂げて居《お》り、知識の拡布《かくふ》、真理の普及に使われる。その背後に控えているのは、皆進歩した霊界居住者達で、或《あるい》はよき思想を送ったり、或《あるい》はよき方法を指示したり、あらゆる手段に訴えて、遺憾《いかん》なく感化影響を及ぼそうとする。霊界の用うる手段たるや、何れも巧妙をきわめ、とても地上の人間には窺知《きち》し得ないところがある。この際霊界人にとりて、何より困難を感ずるのは適当な霊媒……ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。先ず第一にその人物は、受動的の心の所有者《もちぬし》であらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収する丈《だけ》しか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主《せんにゅうしゅ》から、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とてもわれ等の用途にはならぬ。
更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気づかぬから、手がつけられない。われ等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識慾が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者《もちぬし》であらねばならぬ。
次にわれ等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、矢鱈《やたら》に反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっては、殆《ほとん》ど何事も為《な》し得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間どれて、剰《あま》すところが幾何《いくばく》もないことになる。くどいようだが、われ等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理慾が強くて、寡慾で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方が或《あるい》は適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、われ等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶《くんとう》を加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。われ等としては、先《ま》ずつとめて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸《こころが》ける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見《へきけん》から離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以《ゆえん》を悟って来る。次にわれ等は、右の人物として吸収し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一たん知識の土台《どだい》が据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことができて来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやらわれ等の所期の目的と調和して行くことになる。
無論|斯《こ》うした仕事に失敗は伴い勝ちで、われ等としても、止むなく中途で見棄てて了《しま》わねばならぬ人物は沢山ある。世にも度し難きは、人間界にこびりついている古い古い僻見《へきけん》であり、又ドウにも始末に行かぬのは、宗教宗派の墨守《ぼくしゅ》する数々のドグマである。これは『時』の流れに任せる外に途がない。われわれの力にも到底及ばない。
尚お爰《ここ》で一言附け加えて置きたいのは、われ等の教が、徹底的に一切の恐怖を、人の心から剪除《せんじょ》せんことである。要するにわれ等の使命は、神と神の使徒に対して、全幅の信頼を置くべく、魂達を指導することである。
旧神学に従えば、そこに一人の神があって、絶えず人間の堕落を監視し、又そこに一人の悪魔があって、間断なく人間誘惑の罠《わな》を張って居るというのである。この考が頭脳にしみ込んでいる人達は、ややもすればわれ等の教訓を不思議がり、容易にこれに従おうとしないが、これはまことに困ったものである。宗教から一切の恐怖、一切の不安が引き離された時にこそ、地上の人類は、初めて安心立命の境地に立ち得るものといえる。
尚お爰《ここ》にモウ一つ断って置きたいことは、われ等の使命が、ありとあらゆる形式の利己主義を剿滅《そうめつ》せんとすることである。『我《が》』がにじり出づる所には、そこにわれ等の施すべき余地はない。自己満足、唯我独尊、驕慢、自慢、自家広告、自分免許………何れも皆禁物である。小智小才に走るものは、到底われ等の用具にはなり得ない。独断専行を好むものも、亦《また》われ等の侶伴ではあり得ない。克己自制――これがいずれの時代に於《おい》ても、聖人君子に附きものの美徳であった。苟《いやしく》も進展性にとめる真理の祖述者《そじゅつしゃ》は、昔から最も少なく自己を考え、最も多く自己の仕事を考えた人達であった。かの地上にありし日のイエスこそは、正に高き克己心と、清き熱誠との権化ではなかったか。彼は飽《あく》までも自己を抑えて、真理の為めに一身を犠牲にすることを辞せなかった。彼の一生は人間の歴史が有する、最も高潔な絵巻物の一つである。同様に世界を迷妄の闇の中から救い、これに真理の光を注いだ人達にして、未《いま》だ曾《かつ》て自制の人でないのはなく、何れも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向って、畢生《ひっせい》の心血を濺《そそ》ぐを忘れなかった。ソクラテス、プラトン、ヨハネ、ポーロ、――此等《これら》は皆真理の開拓者であり、進歩の使徒であり、極度に無慾純潔、少しも驕慢、自負、自家宣伝等の臭味がなかった。それでこそ、あれほどの仕事ができたのである。若《も》し彼等にして一片の利己心があったなら、そは必ず彼等の成功の心臓部を喰い破ったであろう。
われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天《ぎょうてん》の星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それ丈けそう言った人格は尊い[#「尊い」は底本では「尊 い」]。友よ、落ついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心を以《もっ》て心とせよ。又慈悲深く、寛厚《かんこう》にして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心を以《もっ》て心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神の僕《しもべ》の克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、聖《きよ》く、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意を以《もっ》て之《これ》を監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、亦《また》常に温顔を以《もっ》て之《これ》を迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。
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問『そう言った人格は、到底現代に求め難いと思うが……』
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万事は忍耐[#「万事は忍耐」に白丸傍点]――それは少ない、極めて少ない。よしあっても、ただその萌芽に過ぎない。われ等とても、決して人間に向って完全を求めはせぬ。われ等の求むる所は、ただ誠意あるもの、向上心に富めるもの、自由な、吸収力にとめるもの、純潔にして善良なるものである。人間としてあせる心が何よりも悪い。静かに忍耐の心の緒を引緊めることが肝要である。取越苦労と、心配とは絶対に禁物である。できない事は到底できない。思案にあまる事柄は、すべてわれ等に任せ、思いを鎮めて、よくわれ等の述ぶるところを味ってもらいたい。
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(評釈) いささか冗長のきらいはあるが、大体すぐれたる霊界居住者が、人間に対して何を求めるかは、これでほぼ見当がつく。が、顧みて何人か自己の資格の不充分、不完全を歎息せぬものがあるであろうか。これにつけてもわれ等は、かの活神、活仏気取りの浅墓な心懸の人々には
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