、つくづく長大息を禁じ得ぬ。本人も本人だが、その存在を許す周囲の人達も人達である。日本民族が精神文化の先頭に立ちて、世界を率いる資格の備わるのは、そも何《いず》れの日であろう!
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第五章 幽明交通と環境
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問『霊媒ホームの実験が、たまたまダアビイ競馬日に際会し、終に実験不能に終ったとの事であるが、かかるお祭騒ぎは幽明交通に有害か?』
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悪霊の跳躍[#「悪霊の跳躍」に白丸傍点]――ダアビイ競馬日の如き場合には、人間の道徳的均衡が撹乱されているので、われ等として、地上との交通に至難を感ずる。かかる場合に、ほくそ笑むのは、低級未発達の悪霊どもである。かの投機的慾望によりて刺戟されたる無数の民衆こそは、同じ慾望に燃えている下級霊にとりて、正に誂向きの好餌である。一部の人間共は、飲酒の為めに、前後不覚の昂奮状態に陥って居る。他の一部は一攫《いっかく》万金を夢みて、熱病患者の如く狂いまわって居る。他の一部は一切の資産を失って、絶望のドン底に呻いている。斯《こ》んなのはちょっとした暗示、ちょっとした誘惑にも容易に動かされる。よしそうした劣情が、実際的に惹起《じゃっき》されるまでに至らなくとも、兎に角人々の道徳的均衡が覆されて居るのは、甚《はなは》だ危険である。平静と沈着とは、悪魔を防ぐ為めの大切な楯で、一たんそれに隙間ができれば、未発達な悪霊どもが、洪水の如くそこから浸入する虞《おそれ》がある。
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問『然《しか》らば国家の大祭日、国民的記念日等も有害か?』
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祭日の悪用[#「祭日の悪用」に白丸傍点]――必ずしも有害とは言わぬ。すべては祭日に処する人間の態度如何にかかる。羽目を外した昂奮、則を越えた置酒高会《ちしゅこうかい》、動物的な慾情の満足――人間がこれに走れば、勿論《もちろん》祭日は有害である。しかしこれは祭日や、記念日が悪いのではなくて、これに臨む人間の用意に欠くる所があるのである。若《も》しも人々が国家の大祭日に当りて、肉体の休養と精神の慰安とに心を用いるなら、凡そ天下にそれほどよきものはないのであろう。過度の労役の為めに消耗せる体力が、心地よき安静によりて完全に本復せる時、はげしき屈托《くったく》の為めに欝屈《うっくつ》せる脳力が、適宜の娯楽によりて完全なる働きを取り戻した時こそは、他界の指導者が働きかけるのに、まさに絶好の機会なのである。そうした際には、上界の天使達の威力も思うがままに加わり、いかに兇暴なる魔軍といえども、到底これに一指を染め得ないであろう。折角の大祭日が暴飲暴食と、賭博と、淫楽とに空費せらるることは、たまたま地上の人類が、いかに神霊上の知識に欠けているかを証明するもので、われ等としては全能力を挙げて、その刷新と改善とに当らねばならぬ。
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問『終日労役に服した後で、幽明交通を試むるのも、決して理想的でないと思うが、しかし日曜日は、却って一層心霊実験に適当せぬらしい…………。』
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日曜日の不利[#「日曜日の不利」に白丸傍点]――げに日曜日は、われ等に取りて好適な日とは言われない。精神肉体がその緊張を失えば、その反動として安逸性が加倍し、われ等として、之《これ》を使役して新規の現象の作製を試むる事は、大いに憚《はばか》らねばならぬ。殊《こと》に物理的の心霊現象の作製には甚《はなは》だ不向きで、強いて之《これ》を行えば、霊媒の肉体を毀損する患がないでもない。尚お日曜日が不適当な事につきては、他にも特殊の理由がある。汝達の気づかぬ環境の悪化――これがわれ等の仕事を困難ならしめるのである。食事の直後に実験を行う事の不利は、すでに汝の熟知せる所であろう。要するにわれ等の求むる所は、受動的の敏感性であって、かの怠慢と無感覚より来る所の、単なる受動的状態ではない。刺戟性の酒類を飲みながら、鈍重な食物で胃腸を充たした時に必ず随伴する、かのうとうとした状態――われ等に取りて、これ以上始末におえぬ状態はめったにない。刺戟性の飲料は、或《あ》る場合には、物理的表現の補助となるかも知れない。が、それはわれ等にとりて大々的障害である。何となれば、それは物慾に捕われたる悪霊の為めに門戸を開くからで、われ等の懸命の努力も、到底|之《これ》をいかんともすることができない。座《サークル》を組織する立会人中の、ただの一人がそれであった丈でも、しばしば万事水泡に帰せしむることがないではない。之《これ》を要するに日曜日は、心身の安逸と、過度の飲食から来る、無気力無感覚とが伴い勝ちであるから、心霊実験には、あまり面白いとは言われないのである。
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問『食物の欠乏から来る心身の衰弱は如何?』
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節制第一[#「節制第一」に白丸傍点]――われ等の推奨する所は、ただ節制の一語に尽きる。肉体が食物の補給を必要とするは勿論《もちろん》なれど、ただそれが完全に消化した上でなければ、交霊実験を試みてはならぬ。次に又精神肉体が睡眠を求め、休養を求むる時にも、又疾病苦悩に煩わされて居る時にも、われ等の認可を受けた上でなければ、成るべく、交霊を差控えるがよい。同様に肉体が食物で充填し切って居る時も、兎角下級霊の為めに先手を打たれ勝ちで甚《はなは》だ困る。かの物理的心霊現象でさえもが、そうした場合に起るのは、概してお粗末で、精妙優雅の要素に欠けている。何《いず》れにしても、極端に走るのが良くない。断食の為めに消耗し切っている肉体も、少しも使いよいとは言われないと同時に、暖衣飽食によりて、えごえごしている肉体も甚《はなは》だ面白くない。友よ、若《も》しも我等の仕事を容易ならしめ、最良最上の成績を挙げんとならば、須《すべか》らく交霊会には肉体が健全円満で、感覚が敏活で、其《その》上心が受動的である理想的な一人物を連れ来れ。その時は予想以上の花々しい仕事ができる。更に又|座《サークル》を組織する立会人達の気分が、充分調和していてくれれば一層申分がない。交霊会の席上に出現する燐光でさえもが、右にのぶる如き好条件の下にありては、青く冴え亘って煙がない。之に反して条件が悪ければ其《その》光が鈍く汚く燻《くすぶ》っている。
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註――当時モーゼスの交霊会上には沢山の燐光が現われ、好条件の時にはその色が透明で、青味がかった黄色であり、然《しか》らざる時は赤っちゃけて燻《くすぶ》っていたとの事である。
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(評釈) 爰《ここ》に説いてある所は、正に幽明交通に関する、最も親切にして、要領を掴める虎の巻と称しても、決して過言でないと思う。心霊実験に何の理解も経験もない者は、きまり切って霊媒のみを責め、すべてがこれに掛っているように考えるが、これは飛んでもない心得違いである。環境が悪ければ、いかなる名霊媒だって施す術がない。それは恰度《ちょうど》空中放電その他の場合に、ラジオに故障を生ずると同様であろう。これと同時に霊媒の方でも、常に最大の注意と節制とを守るのが必要で、どんな天分の優れた人物でも、一たん堕落したが最後、碌な働きはできなくなるに決っている。『肉体が健全で[#「肉体が健全で」に白丸傍点]、感覚が鋭敏で[#「感覚が鋭敏で」に白丸傍点]、その上心が受動的[#「その上心が受動的」に白丸傍点]』――まことに困難な註文であるが、実際それでなければ、完全に顕幽の境を突破して、百代に光りかがやくような優れた通信、優れた現象は獲られそうもない。断食に対する注意なども、非常に穏当な意見である。バラモン式の難行苦行が、寧《むし》ろ百弊《ひゃくへい》の基であることは、私自身の経験から言っても動かし難いところである。日本にはまだそうした僻見《へきけん》の捕虜となっているものが、なかなか多いらしいから、特にこの一章の精読を希望して止まぬ次第である。
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第六章 夫婦関係
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問『夫婦の関係は、死後永遠につづくか?』
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趣味と能力[#「趣味と能力」に白丸傍点]――夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。若《も》しも右の二つが揃って居れば、死後の夫婦は互いに[#「互いに」は底本では「亙いに」]手を携えて、向上の途《みち》を辿ることができる。少くともわれ等の境涯に見出さるる一対の男女は、趣味と能力とが一致して居《お》り、互いに扶け合いつつ、進歩の階段を上昇することのできる人達である。われ等には霊的教育がすべてである。従って進歩の所縁《よすが》となるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かの徒《いたず》らに地上生活を陰惨《いんさん》ならしめ、徒《いたず》らに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。之《これ》に反して、魂と魂との一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆《きはん》を脱した暁《あかつき》に於《おい》て、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛の絆《きずな》こそは、相互の発達を促す最大の刺戟であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去に於《おい》て、たまたま両者の間に関係があった為めというよりも、寧《むし》ろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。斯《こ》うした場合には勿論《もちろん》地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少くとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべき途《みち》を辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物の数《かず》でなく、離れていても、立派に相互の胸奥《きょうおう》を伝《つた》えることができるからである。強いてこの法則を破ることは、徒《いたず》らに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じて之《これ》を許さない。
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問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上に居なくても、立派に愛し合っていられると思うが……。』
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愛する魂[#「愛する魂」に白丸傍点]――むろん相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れて了《しま》うことはできない。兎角《とかく》人間の考《かんがえ》は、時間と空間とに拘束されているので、われ等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際に於《おい》ては、極めて親密に結合しているのである。われ等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それは殆《ほとん》ど不可能に近い。魂と魂とが愛情の絆《きずな》で結ばれて居れば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活に於《おい》てすら然《しか》りである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年に亘《わた》りて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係らず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責《さいな》むばかり、優《やさ》しい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、之《これ》に反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが
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