為めに断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上に於《おい》てすら無視することができる。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。
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(評釈) 説明の言葉は簡単だが,この一章は人生の問題に触れて居《お》り、貴重なる教訓をわれ等に与《あた》うるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、基督《キリスト》教の一本調子な恋愛至上説だのは、僅《わず》かに真理の一部を掴んだに過ぎざる、甚《はなは》だしく歪んだもので、到底今後の人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれて居る所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想《びゅうそう》が除かれるであろう。
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      第七章 真の宗教

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問『霊界通信の眼目は何れにあるか?』
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 通信の目的[#「通信の目的」に白丸傍点]――われ等の仕事を妨ぐる障害物は、一にして足りないが、先ず最も当惑《とうわく》するのは、われ等の使用する大切な機関――霊媒の頭脳が、神学上の先入的偏見に充塞《じゅうそく》され、われ等の思想を伝えるのに、多大の困難を感ずることである。これが為めにわれ等は、しばしば長大息を禁じ得ぬ。
 次にわれ等の教に反対する者の中で、最も取り扱い難《にく》いのは、実にかの似而非《えせひ》科学者である。彼等は自分自身の媒体を通じてのみ事物を観察し、そして自分自身の条件によりてのみ、事物を評価せんとする。彼等の求むる所は、真理そのものではなく、いかにして霊界人が詐欺漢であり、又いかにして、それが分裂せる頭脳の一断片であるかを証明せんとするかにある。その曇れる眼、その歪める頭脳は、到底われ等の侶伴《りょはん》たるに適しない。彼等には、他界との交通の神秘を会得すべき心の深みがない。少数の科学者中には、われ等の提示する現象的方面に、注意を払うことを辞せないものも居るが、そはわれ等の事業の中心眼目ではない。われ等の伝えんとするものは、主として魂と魂の交渉であり、又死後に於《おい》て魂の辿るべき宿命の問題である。多年物理学的諸現象の考察にのみ従事せる人達の頭脳は、この種の問題の研究には、適当であるとは言われない。
 同様に困るのはかの無学者――他日充分の準備教育を施した暁《あかつき》には、われ等の唱道する所を、咀嚼《そしゃく》翫味《がんみ》するに至るであろうが、当分まだわれ等の仕事とは没交渉である。
 更にわれ等が持て剰すのは、徒《いたず》らに伝統の儀礼法式に拘泥し、固陋《ころう》尊大《そんだい》、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、或《あるい》は彼等に向くかも知れぬ。が、われ等の受持にかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇《いっぺん》の夢物語に過ぎないであろう。
 然《しか》り、われ等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、之に反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分の落付くべき来世生活につきての知識を求むる、素直《すなお》な魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学――無智と愚昧とがいつとはなしに集積せる、嗤《わら》うべきドグマの為めに歪曲され、又阻害されて居ることであろう! 彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。われ等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去に於《おい》て現れたる啓示を以《もっ》て完全無欠となし、新らしきものを受け納れる心の余地を有しない。若《も》しもわれ等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、何《いず》れの啓示も、決して円満《えんまん》具足《ぐそく》を以《もっ》て任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などを傭《やと》い来《きた》りて、自家の主張の防衛につとめる。要するに彼等は或《あ》る特殊の場合に、或《あ》る特殊の目的を以《もっ》て現れたる、古経典《こきょうてん》の片言隻語《へんげんせきご》を以《もっ》て、一般的真理なりと思考して居るから困るのである。
 全く以《もっ》て度し難きは、かの盲信の徒である。われ等は止むことを得ず、時として何等《なんら》かの奇蹟を以《もっ》て、われ等の使命の実有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対して殆《ほとん》ど効果がない。彼等は言う、奇蹟の時代はすでに過ぎた。奇蹟はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇蹟は、実は神の仕業を摸倣しつつある、悪魔の欺騙《きへん》に過ぎない。真理を以《もっ》て信仰の上に置き、神の御子の絶対性《ぜったいせい》を否定する者は、まさしく魔王の所為《しょい》に相違ないと。
 われ等はかかる論法に接する時に、心から憮然たらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲い哉、彼等には世界の闇を照すべき進歩的傾向がない。われ等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、われ等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣《ざんさ》を一掃し去らねばならぬ。
 宗教にして、真にその名に背かぬが為めには、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向い、他は人に向うのである。われ等が出発点に於《おい》て先《ま》ず訴えんとする最高の法院は、人類に具わる所の理性である。われ等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果して神の啓示であるか否かを決定したのであった。われ等も亦《また》理性に訴える。ヘブルューの予言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。われ等も亦《また》同一の使命を帯びて現代に臨んで居る。
 要するに、われ等と彼等とは全然同一である。ただわれ等の使命が、一層進歩して居るまでである。われ等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫《すんごう》の相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されて居る丈である。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることはできない。信ずべき根柢《こんてい》のある信仰と、信ずべき根柢《こんてい》のなき信仰とは、決して同一架上のものではない。われ等はどこまでも、理性に向って訴えるものである。われ等がいかなる理由で悪魔的であるか? われ等の主張が、いかなる点に於《おい》て魔的傾向を帯びているか? これを合理的に証明することができなければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生も亦《また》禍《わざわい》なる哉《かな》である。
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(評釈) 今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、漸《ようや》く深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害――殊《こと》に既成宗教団からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が歎息するのも、尤《もっと》もな次第である。最初はモーゼス自身すらも、決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向って抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。
 翻《ひるがえ》って日本の現状を観ると、今尚お暗雲低迷、一方に古経典《こきょうてん》の講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んで居るものがあるかと見れば、他方には理性の批判に堪《た》えないどころか普通の常識にも負くるような、愚劣低級な囈語《げいご》を以《もっ》て、神懸りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中が甚《はなは》だ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果して何と言うであろうか?
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      第八章 神霊主義

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問『霊界の指示は、余りにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが…………。』
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 霊界居住者の主張[#「霊界居住者の主張」に白丸傍点]――爾《なんじ》はわれ等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
 宗教――健全なる霊生活――には、そこに明かに二つの方面がある。他なし、一は神に向い、一は人に向う。われ等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
 所謂正統派の教うる神は怒り、猜《そね》む暴君であったが、霊訓の教うる神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一言一行は愛から生れ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
 従って霊訓は、此《この》神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。况《いわ》んやこの全能の神が、天界の玉座に鎮《しず》まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
 然《しか》り、われ等の教には、かかる擬人説の闖入《ちんにゅう》すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考うれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖でありそこに残忍、暴虐、その他人間的悪徳の片鱗をも認むることはできない。神は罪悪がそれ自身の中に刑罰を含むことを知るが故に、常に憐憫《れんびん》の眼もて、すべての人の過誤を見、枉《ま》げられぬ道徳律の許す範囲内に於《おい》て、傷ける者の苦悩を和げようとする。神こそは実に光と愛の中心である。秩序を保つべく、天則の厳守に当らるる神、これがわれ等の崇拝の大目標でなくて何であろう! 神は断じてわれ等の恐怖の対象ではないのである!
 われ等は汝等の思索想像する以上に、よく神を知って居る。が、何人もまだ神の姿を拝したものはない。又われ等は形而上的《けいじじょうてき》詭弁家《きべんか》の顰《ひそみ》に倣《なら》って、あまりにも深入りしたる推理|穿鑿《せんさく》に耽《ふけ》ろうともしない。何となれば、そは却って神の根本観念を失わしむるものであることを知るからである。われ等は断じて力量以上の、立入った穿鑿《せんさく》には与《くみ》しない。われ等は心静かに知識の増進を待って居る。汝等も亦《また》それを待たねばならぬ。
 神と人との関係につきて、われ等は細説を避けたい。兎角この事につきても、人間の工夫発明にかかるものが甚《はなは》だ多く、長き年代の間に蓄積されたる附加物が、中心の真理を隠蔽して居る。例えばかの選ばれたる少数者――そうしたものをわれ等は知らない。選ばれたる者というのは、天地の大道を守りて、自からを救うもの以外には絶無である。
 又われ等は、盲目的信仰の価値に就《つ》きては何事も知らない。むろん、素直に真理を受け入れ、片々《へんぺん》なる疑心暗鬼の煩《わずら》いから超脱する事は甚《はなは》だ尊い。それは神心の現れで必ずや天使の守護に浴し得る。が、われ等は断乎として、かの有毒な神学的教義を排斥する。それ等の教義が教うる、教会のドグマを厳守すれば、地上生活に於ける一切の悪徳邪行から、きれいに一掃せられて、神の恩寵に浴し得ると……。凡《およ》そ天下にこれ以上に、人の魂を堕落せしむるものはあるまい。
 それから又われ等は、ただある一つの信仰が有力で、他は全部排斥してよいという理由を、何所にも認むることができない。真理は断じて或《あ》る教義教条の独占物ではない。むろん何《いず》れの教義にも真理の種子はある。が、何《いず》れの教義にも誤謬《ごびゅう》の夾雑物《きょうざつぶつ》がある。人間が
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