いかなる状況の下に、いかなる信仰形式を採ることになったか、その真相が、われ等にはよく判って居る。故にわれ等は之《これ》を軽視はせぬ。が、形式は要するに末で、真理が根源である。優れた霊魂は、皆地上生活中に信奉せる教義から超脱して一路向上の途を辿っている。われ等は人間の好む繁瑣《はんさ》なる議論を好まない。われ等はかの地上の神学を特色づける、神秘につきての好奇的|穿鑿《せんさく》を求めない。霊界の神学は飽までも単純で知識的である。われ等は単なる暗中摸索を尊重しない。われ等は宗派的論争には興味を有《も》たない。何となれば、そはただ怨恨、嫉妬、悪意、排他的感情の原動力以外の何物でもないことを知っているからである。
われ等が宗教を論ずるのは、宗教がわれ等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間――われ等の観る所によれば、人間は矢張り不滅の霊魂の所有者であるが――の地上生活は、言《い》わば第一期の初等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すべく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。若《も》しこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、若《も》し又|之《これ》を守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
爰《ここ》でくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、曾《かつ》て彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備って居るのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。すべて罪は、それ自身に懲罰を齎《もた》らすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後に於《おい》ても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消ゆることがない。これは悲哀と恥辱とを以《もっ》て償わねばならない。
これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えて居《お》り、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
すでに述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に浴することなく、又何人も不可抗力の誤謬《ごびゅう》の為めに、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於《おい》てのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲は寧《むし》ろ人間に近い。
われ等は、かの全然瞑想に耽《ふけ》りて、自己の責務の遂行を等閑視《とうかんし》する、人気取式の神信心を排斥する。神は断じて単なる讃美を嘉納《かのう》されない。われ等は真剣な仕事の宗教熱烈な祈願の宗教、純真な尊敬の宗教を唱道する。人間は神に対し、同胞に対し、又汝自身に対して、全身全霊をささげて尽すべき責務がある。かの徒《いたず》らに暗中に摸索し神学的虚構物につきて好事的詭弁を弄するが如きは、正に愚人の閑事業たるに過ぎない。われ等は飽まで、現実の生活に即して教を樹《た》てる。要約すれば左の三部分に分れる。――
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(一)神の認識と崇敬。…………神に対する責務。
(二)同胞への貢献。……………隣人に対する責務。
イ、自己の肉体を守る。 ┐
ロ、自己の知識を開発す。│
(三)ハ、真理を求める。 ├………自己に対する責務。
ニ、善行を励む。 │
ホ、幽明交通を講ず。 ┘
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以上の規則の中に、地上の人間に必要なる責務は、ほぼ尽されている。汝等は断じて、一宗一派のドグマに屈従してはならぬ。理性と合一せざる教訓に盲従するのは、人間の恥辱である。所謂啓示の中には、ある特殊の時と場合にのみ適用さるべき性質のものが多いから、無条件にそれに盲従してはならぬ。神の啓示は進歩的であって、特殊の時と、特殊の民族とに限られない。又神の啓示は、未だ曾《かつ》て止んだことがない。神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する。しかも人類の進歩につれて、神の啓示も進歩する。
尚おここで忘れてならないことは、一切の啓示が、皆一人の人間を機関として行わるることである。従ってそれは或《あ》る程度、人間的|誤謬《ごびゅう》によって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、或《あ》る時代に現れたる啓示が他の時代に現れたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別箇の適用性を有するのかも知れぬ。すべてはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が許せば之《これ》を採り、道理が許さねば之《これ》を棄てる――ただそれ丈である。若《も》しもわれ等の述ぶる所が時期尚早で、採用を憚《はばか》るというなら、しばらく之《これ》を打ちすてて時期の到るを待つがよい。必ずやわれ等の教訓が、人類の間に全面的承認を受くる時代が早晩到来する。われ等は決してあせらない。われ等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願して居るものである。
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(評釈) 霊訓中でも、この一章に説く所は、特にすぐれた暗示、すぐれた示唆に富んで居る。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守をすすめ、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽せりと言ってよい。しかも少しもあせらず、押売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風《こうふう》雅懐《がかい》は、まことに見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様におすすめしたい。
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第九章 啓示の真意義
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問『キリストの神性、並《ならび》にその贖罪に対する信仰が、果して一片のドグマに過ぎないであろうか? 御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』
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経典病の弊害[#「経典病の弊害」に白丸傍点]――汝の疑惑は、よくわれ等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪廓に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教は完全円満、永遠不朽に伝うべきである。曰く経典は悉《ことごと》く神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。若《も》し之に反けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、亦《また》絶対服従を要する。……かかる為態《ていたらく》では経典の片言隻語《へんげんせきご》を捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げらるる筈ではないか。
われ等の態度は、全然これと選を異にする。われ等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、之《これ》を尊重することを知っているが、しかしわれ等は、これに盲従するよりは、寧《むし》ろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで予言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である。神につきての人間の知識は、永久に完全でない。人間はただ一歩一歩神に近づいて行くまでである。
かるが故に、心から真理を求むる人士のみが、神に関するわれ等の示教を受け容れることができる。一部の人士は、自分たちが完全なる知識の所有者であると空想する。われ等はそれ等に対して、言うべき何物も有《も》たない。われ等が手を加える前に、彼等は前以って神に関し、又啓示に関して、自己の無学であることを学ばねばならぬ。われ等の述ぶる千語万語も、かの無知、自己満足、及び独裁主義の金城鉄壁を貫通する見込はない。それ等の人物は将来に於《おい》て、苦痛と悲哀の高き代償を払って、彼等の霊的進歩を妨ぐる先入主《せんにゅうしゅ》と、偏見とから脱却せねばならない。われ等は汝の心眼が、これまでの説明で、多少開けて居ると信ずるから、以下進んで啓示の性質につきての解説を試みることにする。
すでにのべた通り、バイブルは、各時代時代に、人間に下されたる神の啓示の集録である。全体を流貫する精神、骨髄には[#「骨髄には」は底本では「骨髄にに」]何の相違もないが、いつもその時代の人間が把握し得る程度の真理しか漏らしていない。時代を離れて啓示はないのである。
思え、啓示を漏らすべき道具は、いつも一人の人間である。かるが故に霊媒の思想霊媒の意見の多少混らぬ啓示は、絶対にあり得ない。何となれば、霊界の住人は、霊媒の心の中に見出さるる材料を運用するより外に、通信の途がないからである。無論できる限り、それ等の材料に補修改造を施し、且《か》つ真理に対する新見解を、これに注入すべく全力を挙げる。が、何と言っても既製品を使用するのであるから、必ずしも思う壺にはまらぬことがある。大体に於《おい》て霊界通信は、霊媒の心が受身になって居れば居るほど、又周囲の状態が良好であればあるほど、純潔性を保つことができるのである。試みにバイブルを繙《ひもと》いて見るがよい。必ずしも平均した出来栄でない。或《ある》部分には霊媒の個性の匂いがついて居る。或《あ》る部分は憑《かか》り方が不完全であった為めに、誤謬《ごびゅう》が混入して居る。或《あ》る部分には霊媒自身の意見が加味されている。就中《なかんずく》どの啓示にも、その時代の要求にあてはまる一種の特色があり、そのまま之《これ》を他の時代に適用することはできないのである。
その然《しか》る所以《ゆえん》は、各自バイブルに就《つ》きて査《しら》ぶれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いて居る。
が、それは極度に詩的空想に彩色《いろどら》れたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴に耽《ふけ》って居る。エホバ神に何の変りもないのであるが、各自その天分に応じて、異った啓示を漏らして居る。ずっと後世になりても、その点に於《おい》て何の相違もない。ポーロとペテロは同一の真理を説き乍《なが》ら、必然的に別の角度から之《これ》をのぞいている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為めに、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、自己の心胸を
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