拡充しようとは思わない。よし思っても力量が足りない。所謂同気相求め、同類相集まるの筆法で、彼等はバイブルの中から、自分達の理想に協う章句を拾い出す。一人の予言者で間に合わなければ、多くの中から、御意に召した箇所を選び出し、御意に召さぬ箇所は勝手に放擲して、ここに継ぎ綴《は》ぎだらけの、自家用の啓示録を製造する。すべての宗派の発生は、つまりは斯《こ》うした手続でできたに外ならない。めいめい最初から自分自身の理想ができて居《お》り、経典の中から選《よ》り出した啓示を以《もっ》て、之《これ》を裏書きしたまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものではないからである。かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻をつき合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、すべてがサッパリ訳の分らぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取次いだ予言者達の真意は、全然|損《そこな》われて了《しま》うのである。かくの如くして啓示なるものは、徒《いたず》らに宗派的論争の用具と化し、古経典は、空しく各自の気に入った武器を引張り出す為めの、兵器庫の観を呈して了《しま》った。
兎に角そうした手続で出来上った所謂神学が、われ等の主張と相容れない所があるのは、寧《むし》ろ当然ではないか。われ等は神学とは全然没交渉である。神学はまるきり地上の産物である。神学者の教うる神の観念は、野鄙《やひ》低劣《ていれつ》を極め、そしてその主張は、魂の発達に対して、最も有害なる影響を与える。われ等は断じてこれに与しない。われ等の使命は、寧《むし》ろ既成の神学を撲滅し、これに代うるに、より正しき神の教を以《もっ》てすることである。
神に就《つ》きての観念が、何故にかくも謬《あやま》って居るかに関しては、そこに別な理由がないでもない。それは地上の人類が、もともと霊的、象徴的であるべき事物をば、あまりにも文字通りに解釈したことである。地上の人達の、想像だも為し得ざる事柄を通信するに当り、われわれは止むを得ず、人間界の措辞用語を借り、時とすればうっかりして、真意とは大分縁遠い言葉を使ったりする。いかなる霊界通信にも、そう言った短所がある。霊界通信が、文字通りに解釈されてはたまらぬ所以《ゆえん》である。一切の啓示は、皆象徴的であると言っても決して過言でない。就中《なかんずく》霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所は甚《はなは》だとぼしい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界の何所にも見出されない。
ここに鑑《かんが》みる所があって、われ等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。然《しか》るにわれ等の選べる霊媒の心には、すでに何等かの定見が出来て居る。それ等の一部は全然間違って居《お》り、他の一部は半ば正しく、又他の一部は或《あ》る程度まで歪曲されて居る。之《これ》を根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、われ等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、できる丈|之《これ》を培養し、補修して、以《もっ》てわれ等の通信の目的に副《そ》わせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞《ふえつ》を加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待って居る。
従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心の何所かに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈《ばっこ》することがない。われ等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役して居るのである。そこにわれ等の図り知られぬ苦心が存する。
人間界の批評家は、往々霊界通信を以《もっ》て、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或《あ》る程度当っていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されて居ることを忘れてはならない。
大体に於《おい》ていえば、われ等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、われ等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪廓は少しも変らないが、ただわれ等の解釈には新らしき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世主とし、神の子とし、又罪の贖者とするが、それは人間的解釈で、かの古代ヘブライ人の刻める犢《こうし》の像と、何の相違もない。しかし乍《なが》ら、キリストがまことの道の為めに自己の生命を棄て、家族を棄て、地上の快楽を棄てて顧みなかった、克己的犠牲行為は、どれ丈人の子を罪より救い、どれ丈人の子を、一歩神に近づかしめたか知れない。その意味に於《おい》て彼を一の贖罪者と言おうとするなら、われ等も欣《よろこ》んでこれに左袒《さたん》する……。
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(評釈) 主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、悉《ことごと》くあてはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代との関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』――これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
一宗一派の発生につきて説く所も甚《はなは》だ深刻である。これを一読して現在の日本を観る時に、われ等は憮然として、長太息を禁じ得ないものがある。
最後に霊媒使用につきて霊達の苦心談、――これも正しく心霊学徒に取りて好参考資料であることは、改めて贅説《ぜいせつ》を要しないであろう。
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第十章 進歩的啓示
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問『あなた方の啓示は、却って民衆の心から信仰を奪う結果になりはせぬか……。』
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新啓示と一般民衆[#「新啓示と一般民衆」に白丸傍点]――汝の疑惑の存するところはよく判る。われ等はこれから右に就《つ》きて、十二分に所見を述べようと思う。われ等はわれ等の使命の、神聖なることを信じて疑わぬ。時運さえ熟せば、天下の民衆は、必ずわれ等の指示に従うに相違ないのであるが、それまでには、民衆に対して多大の準備教育を必要とする。現在に於《おい》てわれ等の提唱する所を受け容れることのできるのは、ホンの少数の先覚者――つまり一般民衆の先達として、指導者の位置に就くべき、少数の先駆者のみに限られる。一体いずれの時代、いずれの国土に於《おい》ても、これに例外はない。旧知識に満足して居る無智の大衆は、必ず新知識に向って、反抗の声を揚げるのが常則となって居る。かのイエスとても同様の憂目を嘗めた。寄木細工式の繁瑣な神学を捏《でっ》ち上げた人達、朝に一条を加え、夕に一項を添えて、最後に一片の死屍にも似たる、虚礼虚儀の凝塊《かたまり》を造り上げた人達――それ等はイエスを冒涜者と見做し、神を傷け、神の掟《おきて》を破る大罪人であると罵った。かくて最後に、イエスを十字架に送ったのである。
今日では何人も、イエスを神を涜《けが》す罪人とは考えない。彼こそは、実に外面的の冷かなる虚礼虚儀を排して、その代りに、陽《ひ》の光の如く暖かなる内面的の愛を、人の心に注ぎ込んだのである。が、当時の当路者達は、イエスを以《もっ》て、漫《みだ》りに新信仰を鼓吹して旧信教を覆すものとなし、之《これ》を磔刑に処したのである!
イエスの徒弟の時代に至りても、一般民衆は、尚お未だイエスの真の啓示を受け容るる丈の心の準備がなく、徒弟達に対する迫害は、間断なく繰り返され、ありとあらゆる讒罵《ざんば》の雨が、彼等の上に降り濺《そそ》いだ。曰くイエスの徒弟どもは、極端に放縦《ほうじゅう》無規律なるしれもの[#「しれもの」に傍点]である。曰く彼等は、赤児を殺し食膳に上せる鬼どもである。今日から顧れば、殆ど正気の沙汰とは受取れぬような悪声が、彼等の上に放たれたのであった。が、これは独り当時に限られたことではない。現在われ等霊界の使徒に対して向けられる世人の疑惑、当局の圧迫とても、ほぼこれに等しきものがある。
但《ただ》しかくの如きは、人文史上の常套的事象であるから、あきらめねばならぬ。新らしい真理に対する迫害は、宗教と言わず、科学と言わず、人類の取扱う、いかなる原野に於《おい》ても、例外なしに行われるのである。これは人智の未発達から発生する、必然的帰結であるから致方がない。耳馴れたものほど俗受けがする。之に反して耳馴れぬもの、眼馴れぬものは頭から疑われる。
で、われ等の仕事が、前途幾多の荊棘《けいきょく》に阻まれるべきは、元より覚悟の前であらねばならぬ。われ等の啓示は往々にして、未開なる古代人の心を通じて漏らされた啓示と一致せぬ箇所がある。これは使用する器の相違が然《しか》らしむるところであるから、如何ともする事はできない。
言うまでもなくバイブルは、幾代かに亘《わた》りて受取られたる啓示の集録である。かるが故に神につきての観念は、人智の進歩に連れて次第に変化し、枝葉の点に於《おい》ては、必ずしも一致していないのである。加之《しかのみならず》バイブルの中には、人間的|誤謬《ごびゅう》の夾雑物《きょうざつぶつ》が少くない。これは霊媒という一の通信機関を使用する、必然の結果である。真理は全体の流れの中に見出すべきで、一字一句の末に捕えらるれば、到底真理を掴むことはできない。全体と交渉なき局部的の意見は、筆者の思想を窺うのには役立つが、われ等の信仰問題とは没交捗である。二千年、三千年の昔に於《おい》て述べられた言説が、永遠に威力を有するものと思うは、愚も亦《また》甚《はなは》だしい。そうした言説は、それ自身の中にも矛盾があり、又同一書冊の中に収められた、他の言説とも相衝突している。大体に於《おい》て言うと、バイブル編成時代の筆者達は、イエスを以《もっ》て神の独子と思考し、このドグマを否定するものを異端者と見做した。同時に又それ等の人達は、あまり遠くない将来に於《おい》て、イエスが雲に乗りて地上に再臨し、地上の人類の審判に参与するのだと信じて居た。無論これ等《ら》が皆迷信であることは言うまでもない。イエスの死後、すでに千八百年以上に及べど、今|以《もっ》てイエスは地上に再臨しない。よほど活眼を以《もっ》てバイブルに対しないと、弊害が多い所以《ゆえん》である……。
で、われ等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当りては、須《すべか》らく自分自身に備われる智慧と知識との光に依《たよ》り、断じて経典学者の指示に依《たよ》ってはならないことである。啓示全体に漲《みなぎ》る所の精神を汲むのはよいが、一字一句の未節に拘泥することは、間違の基である。従ってわれ等の教訓を批判するに当りても、それが果して或《あ》る特殊の時代に、或《あ》る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿《せんさく》は無用である。われ等の教訓が、果して諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果して諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
換言すれば、われ等の教訓が、正しき理性の判断に堪《た》えるか? 精神《こころ》の糧《かて》として何《ど》れ丈の価値を有するか?――われ等の教訓の存在理由は、これを以《もっ》て決定すべきである。
正規の教会で教うるように、諸子に臣従を強うるところの神は、果して諸子の崇拝の対象たるに足りるか
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