《おい》てめいめい異《ちが》った見解を有《も》っている。真に迷霧《めいむ》が覚めるのは肉の眼が閉ずる時、換言すれば、地上生活が終りを告げる時で、そこで初めて地上の教会、地上の神学の偽瞞に気がつき、大至急訂正を試みることになるのである。進歩性の霊魂は、決して呉下《ごか》の旧阿蒙《きゅうあもう》ではない。かの頑冥不霊《がんめいふれい》な霊魂のみがいつまでも現世的迷妄の奴隷として残るのである。
記せよ、真理は決してある特殊の人間、ある特殊の宗教の特権でも何でもない。真理は古代ローマに於《おい》て、鋭意肉の解放を企求した、アテノドーラスの哲学の中にも見出される。又真理は来世の存在を確信して、地上生命の棄却を意としなかった、アツポクタスの言説の中にも見出される。又真理の追窮《ついきゅう》は、かのブローテイナスをして、早くも地上生活中に、よく超現象の世界に遊ばしめ、更に真理の光明は、かのアレッサンドロ・アキリニイをして、よく烈々として、人を動かす熱語を吐かしめた。かるが故に、此等《これら》の霊界居住者達は、今や互に共同一致して真理の宣揚、顕幽一貫の神霊主義的運動の為めに、かくは汝を交通機関として、真剣な活動を試みつつあるのである。此等《これら》の人達に取りて、地上生活時代の意見の如きは、殆《ほとん》ど問題でない。それ等は夙の昔に振りすてられ、生前の僻見《へきけん》などは、最早《もはや》どこにも痕跡をとどめない。むろん此等《これら》の人達は、すでに地上とはきれいに絶縁して了《しま》い、彼等の墓石の上に、哀悼の涙を濺《そそ》ぐものなどは、最早《もはや》只《ただ》の一人もない。彼等には再生の機会は全くなく、要するに彼等は、純然たる霊界居住者なのである。然《しか》し乍《なが》ら、彼等が曾《かつ》て鏤《ちりば》めたる宝玉は、歳と共に光輝を加えて、不朽《ふきゅう》の生命を有《も》っている。この魂の光、この魂の力こそは、実に今日彼等をして、協力して地上人類の純正高潔なる霊的教育――より高く、より清き真宗教の普及の為めに、精進努力せしむる所以《ゆえん》なのである。
吾等は信ずる、沈思《ちんし》熟慮《じゅくりょ》の結果は、必ず汝をして、われ等の主張の合理性を承認せしむるに相違ないと。これに対する絶対的証明は、地上生活中には到底獲られぬであろうが、何れその中汝も亦《また》死線を越えて、われ等の仲間入りをするであろう。その時こそ、最早《もはや》嘘も事実もない。それまではしばらく間接的証明の蓄積によりて、一歩一歩自己の信念を固められたい。自己を裁くと同一筆法を以《もっ》て他を裁けば、決して間違いは起らない。それが審神の要訣である。
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(評釈) 進歩せる神霊界の使徒との交通感応こそ、真宗教の骨子である。これがある時に、初めて宗教に生命が湧き、これがない時に、宗教商人の跋扈《ばっこ》となる。但《ただ》しくれぐれも看過してならぬことは、相手の霊界居住者の正否善悪に対する審判である。この点に於《おい》て本章の説く所は正にわれ等に絶好の指針を与うるものである。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「霊訓」潮文社
1995(平成7)年4月20日初版発行
底本の親本:「霊訓」心霊研究会出版部
1937(昭和12)年9月発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※難読語にはルビを適宜補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※ファイル中「』(閉じ括弧)」が無いところは底本通りです。
※「司配霊」と「支配霊」、「われ等」と「吾等」と「我等」、「彼等」と「かれ等」、「此等」と「これ等」、「汝」と「爾」、「少なく」と「少《すくな》く」、「或《ある》」と「或《あ》る」、「教会」と「教界」、「飽くまで」と「飽《あく》まで」、「欺瞞」と「偽瞞」、「富める」と「とめる」の混在は、それぞれ底本通りにしました。
入力:浅野和三郎著作保存会(担当:新堂悠里、老神いさお、ハム、ちひろ)
校正:土屋隆
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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