たものを彈いたり、即興曲をやつたりする。ガストはショパンに私淑してゐて、彼の曲ばかり彈いてゐる。このヴェネチア滯在中くらゐ、ニイチェは音樂に親しんだことはなく、そして彼はもはやショパンのみしか愛さなくなつてゐた。
 ショパンとニイチェ。――この二人の病人、この二人の純潔な情熱家、この二人のいたるところを漂泊する孤獨者の間には、魂の血縁といふやうなものがありさうである。この二人の中で和音をして顫動してゐるものは、先づ、生きんとする劇的な悦びであらう。それから更らに附け加へたいものは、懷疑の裡に仕事をすることの愉しさ、――恐らくそれは、氣高い方法で苦しむこと、そしてそれを意識してゐること、それからまた、ありふれた光榮を約束させるやうな愚鈍な誠實さよりも寧ろちよつとした短い叫びの方を選ぶことの樂しみ、とでも云ふべきであらうか? とプウルタレスは穿鑿してゐる。
 ワグネルが「トリスタン」を作曲したのは矢張りこのヴェネチアであり、後年自らその作品は、「あの素ばらしいヴェネチアを音樂化したもの」であると言つてゐるが、ニイチェもまた、その「曙光」の中で彼のヴェネチアを音樂化してゐると言へよう。その内
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