ェら、眠る前にその出版者キッペンベルクにその完成を知らせてやった手紙には甚だ人の心を打つものがあるが、その一節に曰《いわ》く、「……私は冷たい月光の中に出て行きました。そして小さなミュゾオを大きな獣のように愛撫してやりました……かかるものを私に授けてくれた、その古い壁を。それからまたあの破壊されたドゥイノをも。」(ドゥイノは大戦中に伊太利軍のために破壊された。)
 それから数日と立たない裡《うち》に引続いて又、その支流とも云うべき小さな作品が殆ど求めずして出来た。「オルフォイスに捧ぐるソネット」と呼ばれる五十余篇のソネットがそれである。
 それまでもとかく健康のすぐれなかったリルケは、その仕事の過労のためにいよいよ健康を損《そこ》ねてゆき、その後殆どそのミュゾオに居ついたまま、僅かな詩作と、二三の翻訳をしたくらいで、遂に一九二六年十二月の末に死んで行った。死んだのは、しかし、その愛するミュゾオではなく、発病後|強《し》いて移されたレマン湖畔のモントルウの療養所である。
 病名は壊血症というものだそうだが、その病気の直接の原因になったと云われる、いかにもリルケの最後らしい、美しい挿話《そうわ》を、私はつい最近読んだ。

      *

 或る日、リルケはミュゾオを訪れることを予《あらかじ》め約束してあった一人の婦人を待っていた。その婦人は約束の時間よりもやや遅れてやって来たが、それを待っている間、リルケはその客に与えようとして、庭に出て薔薇《ばら》を摘んだ。(ミュゾオの庭には、詩人が自分の手で百株ばかりの薔薇を植えていたのである。)その時その薔薇の棘《とげ》が彼の手を傷つけた。そしてその何でもなかったような小さな傷が次第に悪化して行って、遂に壊血症の原因になったと云うのである。「つねに女性の偉大さと薔薇の美しさとを説いていた詩人はかくして一女性のために摘んだ薔薇の一つに刺されて死んで行ったのである。その最後がいかに痛ましくあったとは云え、それはリルケがかれ独自の死を死すべく選んだものであった、」とその話の筆者は云う。
 そのミュゾオの館の庭には、いまでも詩人の手植の薔薇が咲いているそうである。私が他日スゥイスにも行けるような身の上になれたら、何よりも先に、そのミュゾオの館と、それから詩人の墓のあるラロンの村とを訪れることだろう。
 が、それはいつのことやら……。私はそれよりか今は、本はとっくに買い込んで置きながら、まだ手をつけていない、そしてリルケ自身も「長い、時としては骨の折れる読書」と云うその「ドゥイノ悲歌」を何とかして克服せんことをこそ思うべきであろう。
[#改ページ]


   ノオト


「雉子《きじ》日記」のなかで、私は屡々《しばしば》ミュゾオの館《やかた》のことを持ち出したが、それについて富士川英郎君から非常に興味のあるお手紙を頂戴した。「ミュゾオの館」というのは、御承知のようにリルケがその晩年を過した瑞西《スウイス》のヴァレェ州にある古い 〔cha^teau〕 のことである。その見もしない 〔cha^teau〕 のことなんぞを私はいろいろと知ったか振りをして書いて見たのであるが、富士川君の注意によって、二三此処に訂正して置きたいと思うのである。
 先ず、その 〔cha^teau du Muzot〕 の読み方である。私はそれを普通にシャトオ・ド・ミュゾオと発音していた。ところが富士川君の注意によると、リルケ自らが一九二一年七月二十五日にマイリ・フォン・トウルン・ウント・タクジス・ホオエンロオエ夫人に宛てた手紙のなかにそれを Muzotte と発音してくれと書いてあるのだそうである。恐らくそれがその地方特有の呼び方なのであろう。勿論、Muzotte は富士川君も言われるように、仏蘭西《フランス》式にミュゾットと発音するのだろう。従って私の用いていた「ミュゾオの館」は「ミュゾットの館」と訂正されなければならない。
 以上はその館のほんの名称のことだが、富士川君はその名称のことから更に、その前述の手紙の中でリルケがいろいろとその館の構造や由来について詳しく語っている由、まだその手紙を見ていない私に懇切に書いてきてくれたのである。――それによって私はもう一つ訂正して置いた方がいいと思う箇所を発見したが、私はその詩人の愛していた古い館をただ漠然と十三世紀頃のものと書いていたが、その頃から残っているのはその建物の根幹だけで、それから何度も建て直され、現存している天井や家具の多くは十七世紀頃のものらしい。それからリルケがその館のさまざまな歴史を書いているうちに、こんな話があるそうである。
 十六世紀の初め頃に、その館に Isabelle de Chevron という娘が住まっていた。その娘は Jean de Montheys 
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