雉子日記
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)独逸《ドイツ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|釜《かま》の

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   雉子日記


      一

 去年の暮にすこし本なんぞを買込みに二三日上京したが、すぐ元日にこちらに引っ返して来た。汽車がひどく混んで、私はスキイの連中や、犬なんぞと一しょに貨物車に乗せられてきたが、嫌いなスティムの通っていないだけでも、少し寒くはあったが、この方がよっぽど気持が好いと思った。
 すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥《さび》しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。
 ハウス・ゾンネンシャインと云う、いかめしい名の、独逸《ドイツ》人の経営しているパンションが、近頃|釜《かま》の沢《さわ》の方に出来て、そこは冬でも開いていると云うことを、夏のうちから耳にしていたが、私がそれを見たのはついこの間のこと、――クリスマスを前に、二三日続いて、ひどい大雪があった。そう、このへんでも五〇糎《センチ》位は積った。そんな大雪がからりと晴れあがるや否や、鬱陶しく閉じこめられていた追分《おいわけ》の宿から、私はたまらなくなって飛び出して、膝《ひざ》まで入ってしまうような雪の中を、停車場まで歩いて、それから汽車に乗って、軽井沢に来たが、ここでも軽便を待つのがもどかしく、勝手知った道なので、近道をしようとして野原を突切ったのはいいが、茅《かや》なんかの埋まっているところは体が半分位雪の中に入りそうになったり、いきなり道傍《みちばた》から雉子《きじ》が飛び立ったりして、何度も立往生せざるを得なかった。やっと別荘のちらほらとある釜の沢の方に出たら、道もよくなり、いましがた通ったらしい自動車の轍《わだち》さえ生ま生ましくついている。どこかの別荘に来た奴のだなと思いながら、その轍を辿《たど》っていったら、やがて山にかかると、それが消え失せ、その代りに男女の足跡らしいのが入り乱れてついているので、更にそれを追って行くと、釘《くぎ》づけになった数軒の別荘の間から、私の前に突然、緑と赤とに塗られた雛型《ひながた》のように美しい三階建のシャレエが見え出した。南おもては一面の硝子《ガラス》張りだが、それがおりからの日光を一ぱいに浴びながら内部の暖気のためにぼうっと曇り、その中から青々とした棕櫚《しゅろ》の鉢植をさえ覗かせている。――近づいて標札を見ると、「Haus Sonnenschein」とある。ふん、こいつだなと思って、私はその家の前を何度も振り返りながら、素通りして、裏の山へ抜けようとしかけたが、頭上の大きな樅《もみ》の木からときおりどっと音を立てて雪が崩れ落ちてくるのに目が開けられないほどなので、又、引っ返してきた。その時ふいに、クリスマスに来たいと言ってきた阿比留信にこんなところに泊まらせてやったら愉快がるだろうと気まぐれに思い立って、そのままずかずかと裏木戸から這入《はい》って、台所を覗いて見ると、ストオヴの側で白いエプロンをかけた日本人の若い娘が卓の上に水仙の花を惜しげもなく一ぱい散らかして、いくつかの花瓶《かびん》にそれを活けていたが、私の意を伝えると、きのう主人夫婦も横浜から来たばかりで、何でも、もうクリスマスには大ぜいな客があるように申しておりましたけれども、……まあ、中へおはいりになってお待ち下さい、と人懐こそうに私の方をまじまじと見ながら、そう言い置いて、奥へ引っ込んでいった。私はもうそんなことはどうだっていいんだと云ったような、ぼうっとするような気持で、好い匂いのするストオヴに頬を赤くしながら、真白いエナメル塗りの台所の一隅に片寄せられてある、男と女の長靴から、さかんに湯気が立ちのぼっているのを見入っていた。……

      二

 いま、私の暮している追分ときた日には、村中で商いをしているのは、村はずれの居酒屋みたいなのと、煙草や駄菓子なんか売っているのと、たった二軒。――正月こっちへ来てから、無精を極め込んで、一度も髭《ひげ》をあたらずにいたが、或る日、ぶらりと軽井沢まで汽車に乗って理髪店に行った。軽井沢の町だって、いまは大抵の店は何処《どこ》かへ店ごとそっくり荷送されでもしそうな具合に、すっかり四方
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