ゥら荷箱同様の板を釘づけにされている。唯二三軒、うす汚ない雑貨店みたいのが、いまでも店を開いているが、そんな店先にもクレエヴンやペル・メルの罐《かん》が店《たな》ざらしになっているのは、さすがに軽井沢らしい。郵便局の横町にある理髪店に飛び込んで髭をあたって貰う。南を向いた店先には一ぱい日がさし込んでいる上に、ストオヴを自棄《やけ》に焚《た》いているので、苦しいくらい熱い。この店は夏場は五つか六つ鏡が並べてあった筈だが、いまはたった二個、――そうして他の鏡のあった場所は、何処かの別荘のお古らしい、バネの弛《ゆる》んでいそうなベッドが占領している。ここでこの親方は、客の来ない時は昼寝でもしているのだろう。――私の向っている凸凹のある鏡には、筋向うの、やっぱり釘づけにされた、そして横文字の看板だけをその上にさらし出している、肉屋と、支那人の洋服屋が映っている。おや、何だか見覚えのある奴が通るぞ。なあんだ、テニス・コオトの番人か。やあ、こんどは自動車が通る。毛唐《けとう》の奴らが鮨《すし》づめになっていやあがる。ふふん、さてはハウス・ゾンネンシャインの連中だな。鏡の中に映らないが、自動車が何か引きずってゆく音がする、何だい? と訊《き》いたら、橇《そり》ですよ、と親方は無雑作に答える。
 それからいそいで理髪店を飛び出すと、きっとゴルフ場へでも行って橇で遊ぶのだろうと思って、そっちへ行って見ようと、まだ雪の大ぶ残っている町の裏側の「水車の道」へはいって聖パウロ・カトリック教会の前まで行きかけたけれど、道は悪し、なんだか面倒くさくなって、その筋向うの裏口からホテルに飛び込んで、お茶を飲まして貰う。勿論、客なんか一人もいない。そこで軽便の出るまで、ホテルの娘と無駄口をききながら、ストオブに噛《か》じりついていた。
 追分の宿に帰ったら、思いがけず田部《たなべ》重治さんが来ていられた。越後《えちご》の湯沢とかへ兼常《かねつね》さんやなんかとスキイに行かれたお帰りだとか。皆と高崎で別れて、お一人だけわざわざこちらに寄られた由。――茶の間の大|火燵《こたつ》の上で、鳥鍋《とりなべ》をつつきながら、誠ちゃん(宿の主人)も加わってよもやまの話。――田部さんは本当に追分がお好きらしい。ことにこんな風に一杯聞こし召されようものなら、誰に向っても、追分のいいことを繰返し繰返し語られる。僕なんぞはもういい加減耳に胼胝《たこ》が出来てもよさそうな筈だが、一向聞き倦《あ》きもせずに、にこにこしながら会槌《あいづち》を打っているのだから、これも不思議だ。
 たかが浅間山の麓《ふもと》で、いくぶん徳川時代の古駅の俤《おもかげ》をそのまま止めているというよりほかに何の変哲もない、こんな寥《さび》しい村が、一体何でそんなにいいのだろう? と他の人が聞いていたら、思うかも知れない。
 この間、辻村《つじむら》伊助の「スゥイス日記」を読んでいたら、リルケがその晩年を送りながら「ドゥイノ悲歌」を書いたシャトオ・ド・ミュゾオのある、ロオヌ河のほとりの、ラロンという村なんぞは、汽車で素通りしている。ああいう旅行者にとっては、取るに足りないような寒村が、かえって詩人にとっては仕事をよく実らせてくれるのかも知れないのである。

      三

 浅間山だけがすっかり雪雲に掩《おお》われ、その奥で一人で荒れているらしく、この山麓《さんろく》の村なんぞには、日が明るく射しながら、ちらちらと絶えず雪の舞っているようなことがある。そんな時なんぞ、どうかして不意にその雲の端が村の上にかかると、南に連なった山々のあたりにはくっきりと青空が見えながら、村全体が翳《かげ》って、ひとしきり吹雪《ふぶ》く。と思うと、すぐ又、ぱあと日があたってくる。ここでは、そんなような空合いの日がかなり多い。
 田部さんがリュックを背負って帰って行かれた七日の夕方も、そんな雪催《ゆきもよ》いだった。途中の落葉松林《からまつばやし》のはずれまでお見送りして、其処から一人で帰ってきながら、私はこの村にこうして一人で気儘《きまま》にいられるのを幸福に思わなければならないのかな、と考えたが、それにはいささか、半信半疑だった。
 それから二三日立ってから、去年の夏この村で知合いになった英夫君が、正月になったら送ってくれと云って頼んで置いた空気銃を東京からわざわざ持って来てくれた。
 翌日、一日じゅう二人で空気銃をもって森の中を駈歩いた。森の中はまだ雪が相当深い。これは狐の、これは兎の、それからこれは雉子か山鳥かどっちかだ、と雪の上に印せられている色んな足跡を、この間教えられたばかりのをおぼつかなく思い出しながら、そんなことを言い合っている間にいきなり私達の行手から飛び立つ鳥どもの羽音に、空気銃を手にしていることなんぞちょっと
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