男にとっては、その一二年の月日はまたたく間に過ぎた。
しかしその間、男は一日も前の妻のことを忘れたことはなかった。が、何かと宮仕が忙しかった上、あらたに通い出していた伊予《いよ》の守《かみ》の女の家で、懇ろに世話をせられていると、心のまめやかな男だっただけ、彼等を裏切らないためにも、男はつとめて前の妻のところからは遠ざかり、胸のうちでは気にかけながらも、音信さえ絶やしていた。
最初のうちは、それでも男は幾たびか、人目に立たないようにわざと日の暮を選んで、前の女のいる西の京の方へ往きかけた。が、朝夕通いなれた小路に近づいて来ると、急に何物かに阻《こば》まれるような心もちで、男はその儘引っ返して来た。男はこんなことで、心にもなく女とも別れなければならなくなる運命を考えた。
しかし、その儘女にも逢わずに月日が立つにつれ、もう忘れていてもいいはずのその女のことを何かのはずみに思い出すと、その女の、袖を顔にした、さびしい、俯伏《うつぶ》した姿が前にも増して鮮明に胸に浮んで来てならなかった。そうしてとうとうしまいには、その女のそうしているときの息づかいや、やさしい衣《きぬ》ずれの音までが
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