いつかそこに袖を顔にして泣き伏していた。男はしげしげと女の波うっている黒髪を見ていた。それから自分も急に目をそらせて、ふいと袖を顔にもっていった。
 男がその女の家に姿を見せなくなったのは、それから何日もたたないうちだった。

   二

 男が黙ってふいに立ち去ってから、それでも女はなお男を心待ちにしながら、幾人かの召使いを相手に、さびしい、便りない暮らしを続けていた。が、それきり男からは絶えて消息さえもなかった。女にとっては、それは自分から望んだこととはいえ、たまらなく不安だった。待つことの苦しみ、――何物も、それを紛《まぎ》らせてはくれなかった。それでも女はまだしもそのなかに一種の満足を見いだし得た。――だが、いつまで立っても、男のかえって来るあてのないことが分かって来ると、わずかに残っていた召使いも誰からともなく暇をとり出し、みな散り散りに立ち去って往つた。
 一年ばかりのあとには、女のもとにはもう幼い童《わらわ》が一人しか残っていなかった。その間に、寝殿《しんでん》は跡方もなくなり、庭の奥に植わっていた古い松の木もいつか伐《き》り取《と》られ、草ばかり生い茂って、いつのまにか
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