りにもつたなかった来しかたに抗《あがら》うような、そうして何か自分の運を試めしてみるような心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下っていった。
四
しかしその郡司の息子には、国元には、二三年前にめとった妻が残してあった。そうして親達の手まえもあり、息子は、その京の女をおもてむき婢《はしため》として伴れ戻らなければならなかった。
「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女を宥《なだ》めるようにして言った。「その折にはきっと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱していて下さい。」
女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思うほど、泣いて、泣いて、泣き通した。――すべての運命がそこにうち挫《くじ》かれた。
が、一月たち二月たちしているうちに、――殆ど誰にも気どられずに婢として仕えているうちに、――こうしている現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのような、空虚《うつろ》な気もちのする日々が過ごされた。いままでの不為合せな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、――そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分
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