女は数日まえのことを思い出した。――数日まえ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はっとして「自分はもうあのお方には逢われないのだ」と気づいたときのいまにも胸の裂けそうな思いのしたことを思い出した。あのときから女の心もちは急に弱くなった。それまでのすべての気強さは――畢竟《ひっきょう》、それはいつかは男に逢えると思っての上での気強さであった。――女はもう以前の女ではなかった。
 その晩、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやった。

 それから夜毎に郡司の息子は女のもとへ通い出した。
 女はもう詮方《せんかた》尽《つ》きたもののように、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなった自分の身が、何だかいとおしくていとおしくてならないような、いかにも悔《く》やしい思いをしながら、その男に逢いつづけていた。
 漸《ようや》く任が果てて、その冬のはじめに近江へ帰らなければならなくなったときには、郡司の息子はもうすっかり此の女に睦《むつ》んで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く気にはなれずにしまった。
 女はそれを強いられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかったけれど、しかし自分の余
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