れながらせつなく思うばかりだった。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の歩きまわっている物音が聞えていた。最後に男の声がしたときは、もう女のいる対の屋からは遠のいて、向いの尼のいる対の屋の方へ近づき出しているらしかった。それからもう何んの物音もしなくなった。
 すべては失われてしまったのだ。男は其処にいた。其処にいたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、まだ蜘の網が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。女はその儘|荒《あば》らな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。……

   三

 それから半年ばかり立った。
 近江の国から、或|郡司《ぐんじ》の息子が宿直《とのい》のために京に上って来て、そのおばにあたる尼のもとに泊ることになったのは、ちょうど秋の末のことだった。
 それから何日かの後、郡司の息子が異様に目を赫《かが》やかせながら言った。「きのうの夕方、向うの壊れ残りの寝殿に焚《た》きものを捜しに往きますと、西の対にちょうど夕日が一ぱいさし込んでいて、破れた簾《すだれ》ごしにまだ若そうな女のひとが一人、いかにも物思わ
前へ 次へ
全23ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング