い月をぼんやり眺めているうちに、いつか暗《やみ》にまぎれながら殆どあるかないかに臥せっていた。
 そのうちに女は不意といぶかしそうに身を起した。何処やらで自分の名が呼ばれたような気がした。女の心はすこしも驚かされなかった。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の声だった。そうしてそのときもそれは自分の心の迷いだとおもった。が、それからしばらくその儘じっと身を起していると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはっきりと同じ声がした。女は急に手足が竦《すく》むように覚えた。そうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな体を色の褪《さ》めた蘇芳《すおう》の衣のなかに隠したのが漸《や》っとのことだった。女には自分が見るかげもなく痩《や》せさらばえて、あさましいような姿になっているのがそのとき初めて気がついたように見えた。たとい気がついていたにせよ、そのときまでは殆ど気にもならなかった、自分のそういうみじめな姿が、そんなになってまだ自分の待っていた男に見られることが急に空怖ろしくなったのだった。そうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめていることしか出来なくなっている自分の運命を、わ
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