ゃん、早くいらっしゃいな……」皆に呼ばれて、お竜ちゃんは母に慌《あわ》ててお辞儀をして、私の方は見ずに、皆のところへ帰って行った。それからまた前のように、肩に手をかけあって一緒に走り出してから、暫《しばら》く立ったのち、彼女たちは一どに私の方を振り返ったかと思うと、どっと笑いくずれた。……
その翌日から、私はやっと一人で学校へ通い出した。そうして毎朝、誰よりも先きに行って、まだ締まっている学校の門が小使の手で開かれるのを待っている、几帳面《きちょうめん》な数名の生徒たちの一人になった。
そのうちにだんだん一人で通学することにも慣れ、頭の禿げた、ちょぼ髭の先生にも自分が特別に目をかけられていることを知るようになった時分には、それまでどうかすると内気なために他の者から劣り勝ちだった学課の上にも、急に著しい進歩を見せ出した。大抵の学課では、他の生徒たちにあまり負けないようになった。どういうものか算術が一番得意で、読方、書方がそれに次ぎ、唱歌と手工だけは相変らず不得手だった。
これはやや後の話だが、私のあまり得意でない図画の時間に、その先生が皆にめいめいの好きな人物を描いてみろと云って描かせた絵の中で、私の描いた海軍士官の絵だけが、ながいこと教室に張り出されていた事さえある。その絵が決して上手《じょうず》ではないこと、――ことに私が丹念《たんねん》に描き過ぎた立派な口髭のために、反《かえ》って変てこな顔になってしまっていることは、私自身も知っていた。しかし、その先生にはその絵がひどく気に入っていたらしかった。それは私がその海軍士官の腕に、私以外には誰もそれを思いつかなかった、黒い喪章をちょっと添えただけの事のためらしかった。(それは明治大帝がおかくれになってから間もない事だったからである。……)
さて、私がお竜ちゃんとおもいがけず再会して、それからほどもなかった、或る日の出来事に戻ろう。――屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》、受持の先生たちが相談して、男の組と女の組とを互に競い合わせるために男の組の半分を女の教室へやり、女の組の半分を男の教室に入り雑《まじ》らせて、一緒に授業を受けさせることがあった。或る日、そういう目的で女の組のものが這入《はい》ってきたとき、私はその中にお竜ちゃんのいるのをすぐ認めた。その上、順ぐりに席に着きながら、私の隣りに坐らせられたのは、そのお竜ちゃんだったのである。
お竜ちゃんは、しかし、私を空気かなんぞのように見ながら、澄まして、寧《むし》ろつんとしたような顔をして、私の隣りに坐った。私は心臓をどきどきさせながら、一人でどうしてよいか分からず、机の蓋《ふた》を開けたり閉めたりしていた。
それは私の得意な算術の時間だった。どんなに上《うわ》ずったような気もちの中でも、私は与えられる間題はそばから簡単に解いていた。そういう私とは反対に、お竜ちゃんには計算がちっとも出来ないらしかった。そうして帳面の上に、小さな、いじけたような数字を、いかにも自信なさそうに書き並べているのを、私はときどきちらっと横目で見ていた。しかし、お竜ちゃんは、大きな、無恰好《ぶかっこう》な数字が一めんに躍《おど》っているような私の帳面の方は偸見《ぬすみみ》さえもしようとはしなかった。
突然、私は鉛筆の心《しん》を折った。他の鉛筆もみんな心が折れたり先きがなくなっているので、私は小刀でその鉛筆をけずり出した。しかしいそげばいそぐほど、私は下手糞《へたくそ》になって、それをけずり上げない先きに折ってしまった。
お竜ちゃんは、そんな私をも見ているのだか見ていないのだか分からない位にしていたが、そのとき彼女の千代紙を張った鉛筆箱をあけるなり、誰にも気づかれないような素ばしっこさで、その中の短かい一本を私の方にそっと押しやった。
私も私で、黙ってその鉛筆を受取った。その鉛筆は、よくまあこんなに短かくなるまで、こんなに細くけずれたものだと思ったほど、短かくしかも尖《とが》っていた。私はそれがいかにもお竜ちゃんらしい気がした。私はすこし顔を赤らめながら、そんな先きの尖った短かい鉛筆で、いまにもそれを折りはしないかと思って、こわごわ数字を並べているうちに、だんだん自分の描いている数字までが何処かお竜ちゃんの数字みたいに小さな、顫《ふる》えているような数字になりだしているのを認めた。……
やっと授業が終ったとき、私は「有難う」ともいわずに、その鉛筆をそっとお竜ちゃんの方へ返しかけた。しかし、その鉛筆は私の置き方が悪かったので、すぐころころと私の方へころがって来てしまった。――そのときは、みんなはもう先生に礼をするために起立し出していた。私もその鉛筆を握ったまま立ち上がった。礼がすむと、女の生徒たちは急にがやがや騒ぎ出しながら、教室から出て行った。お竜ちゃんは他の生徒たちの手前、最後まで私を知らない風に押し通してしまった。そのため、彼女の貸してくれた使い古しの短かい鉛筆は、そのまま私の手に残された。
エピロオグ
私は、自分の最初の幼時を過ごした、一本の無花果《いちじく》の木のあった、昔の家を、洪水のために立退《たちの》いてしまってから、その後、ついぞ一ぺんも行って見たことがなかった。
私は、いま、この幼年時代について思い出すがままに書きちらした帳面を一先《ひとま》ず閉じるために、私がもう十二三になってから、本当に思い設けずに、その昔の小さな家を偶然見ることになった一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話《そうわ》を此処《ここ》に付け加えておきたい。
その頃私たちの同級生に、緒方《おがた》という、母親のいない少年がいた。級中で一番体が大きかったが、また一番成績の悪い少年だった。学校が終ると、いつも数名連れ立って帰ってくる私達に、ときどきその緒方という少年は何処《どこ》までも一しょにくっついてきて、自分の家へは帰ろうともせずに、夕方遅くまで私達と石蹴《いしけ》りやベイごま[#「ベイごま」に傍点]などをして遊んでいた。相当腕力も強かったので、彼を自分たちの仲間にしておこうとして、私達は何かと彼の機嫌《きげん》をとるようにしていた。それにまた、そういうベイなどの遊びにかけては彼は誰よりも上手だったのだ。――或る日、私は横浜から父の買ってきてくれた立派なナイフをもっているところをその緒方に見つかった。緒方はそれをいかにも欲しそうにし、しまいに、彼の持っているベイ全部と交換してくれと言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私は返事をした。そんな分《ぶ》の悪い交換に私が同意したのは、腕力の強い緒方を怖《おそ》れたばかりではなかった。私の裡《うち》には何かそういう彼をひそかに憐憫《れんびん》するような気もちもいくらかはあったのだ。
それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすことにし、私は自分で好きなベイを選ぶことになって、はじめて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしに、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝《みぞ》を越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私が最初の幼時を過ごした家のある横丁かも知れないと思い出した。私は急に胸をしめつけられるような気もちになって、しかしなんにも言わずに彼についていった。二三度狭苦しい路次を曲った。と、急に一つの荒れ果てた空地を背後にした物置小屋に近い小さな家の前に連れ出された。私はその殆《ほとん》ど昔のままの荒れ果てた空地を見ると、突然何もかもを思い出した。――彼が自分の家だといって私に示したのは、それは昔私の家の離れになっていた、小さな細工場をそれだけ別に独立させたものにちがいなかった。その一間きりらしい家の中では、老父が一人きり、私達を見ても無言のまま、せっせと自分の仕事に向っていた。それは履物《はきもの》に畳表を一枚々々つける仕事だった。――その家というのもほんの名ばかりのような小屋から、もと私達の住んでいた母屋《おもや》とその庭は、高い板塀《いたべい》に遮《さえぎ》られて殆ど何も見えなかった。唯《ただ》、その板塀の上から、すっかり葉の落ちつくした、ごつごつした枝先をのぞかせているのは、恐らくあの私の大好きだった無花果の木かも知れなかった。いまの私達の家に引越すとき、他の小さな植木類は大抵移し植えたが、その無花果の木だけはそのままに残してきた筈《はず》だった。――
私はその老人が何も言わずに気むずかしげに仕事をしつづけているのに気がねしながら、縁側に倚《よ》りかかって、緒方の出してきた袋の中から自分のもらうベイを選んでいる間も、絶えず隣りの家に気をとられていた。そのときの私のおずおずした目にも、それはまあ何んとうす汚《よご》れて、みじめに見えたことか。それは私が緒方にさえもその家が昔の自分の家だったことを口に出せずにいた位だった。
「お隣りは何んだい?」私は漸《ようや》っとためらいがちに訊《き》いてみた
「ふふ……」緒方はいかにも早熟《ませ》たような薄笑いをした。
それから彼はちらりと自分の老父の方を偸《ぬす》み見ながら、私にそっと耳打ちをした。
「お妾《めかけ》さんの家だ。」
私はその思いがけない言葉をきくと、不意と、何か悲しい目つきをした若い女の人の姿を浮べた。それは私の方でも大へん好きになれそうだし、向うでも私のことを蔭ではかわいがってくれているのに、その境遇のために何とはなしに私に近づけないでいる、あのおよんちゃんという小さなおばさんに似た、それよりももっともっと美しい人だった。……私は何かもう居ても立ってもいられないような、切ない気がしだしていた。しかし私は、いかにも何気なさそうな風をして、ベイを選ぶのはいつか緒方自身に任せながら、目の前の、枯れた無花果の木のごつごつした枝ぶりを食い入るようにして見入っていた。
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註一 火事があったのは丁度私の四歳の五月の節句のときで、隣家から発したもので、私の家はほんの一部を焼いただけですんだ由。しかし、その火事で私は五月|幟《のぼり》も五月人形もみんな焼いてしまったりして、その火事の恐怖が私には甚《はなは》だ強い衝動を与えたために、それまでのすべてのいろんな記憶は跡かたもなく消されてしまったらしい。そののちは端午の節句になっても、私のためにはただ一枚の鍾馗《しょうき》の絵が飾られたきりであった。
花火から茅葺《かやぶき》屋根に火がうつって火事になったのは、三囲稲荷のほとりの、其角堂《きかくどう》であった。そしてそれは全然別のときのことであった。
註二 数年後、私達が引越して行った水戸さまの裏の家の植込みにも、それと同じ木があり、夏になるといつもぽっかりと円い紫の花を咲かせているのを毎年何気なく見過ごしていたが、それが最初の家から移し植えたものであり、また紫陽花《あじさい》という名であるのを知ったのは、私がもう十二三になってからだった。それまでながい間、私はその花の咲いているのを見ていると、どうしてこうも自分の裡《うち》に何ともいえずなつかしいような悲しみが湧《わ》いてくるのだか分からないでいた。
註三 「掘割づたいに曳舟通《ひきふねどおり》から直《す》ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂回《うかい》した小径《こみち》が三囲稲荷の横手を巡《めぐ》って土手へと通じている。小径に沿うては田圃《たんぼ》を埋立てた空地《あきち》に、新しい貸長屋がまだ空家のままに立並んだ処《ところ》もある。広々とした構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎《いなか》らしい茅葺の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それ等《ら》の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった。……」
これは荷風の『すみだ川』の一節であるが、全集を見ると明治四十二年作とあるから、まだ私が五つか六つの頃である。それだから、私の記憶はこれほどは
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