かり立てているように見えた。次ぎの遊戯の時間になると、他のオルガンが運動場の真ん中に持ち出された。戸外では、オルガンはそんな意地悪をしないのに決まっている。果してそれはいつもの単純な、機嫌《きげん》のいい音を立て出した。みんなはそのオルガンのまわりに、手と手とつなぎながら、環《わ》を描いた。私だけは、ぶらんこの傍《そば》で待っているおばあさんのところに行って、その環の中には加わらずにいた。そうしてみんなが愉しそうに手をあげ足を動かし出すのを側から眺《なが》めていることに、その環の中に加わっては私には反《かえ》って一緒に味《あじわ》えない、みんなとそっくり同じな愉しさを見出していた。
 そういう私を、ときどきみんなを見廻しながらオルガンを弾いていた若い女の先生がとうとう見つけて、無理やりにその環の中に加わらせた。遊戯がはじまって、自分がどう動作したらいいのか分からなくなると、私はオルガンを弾いている先生の方を見ないで、遠く離れたおばあさんの方へ困ったような顔を向けた。そうやってちょっとでも私が足を止めようとすると、私のすぐ隣りにいた私よりか背の高い、目の大きな、ちぢれ毛の、異人さんのような少女が、手を上げたり下ろしたりする拍子に、私を横柄《おうへい》そうにこづいた。そのたびに、私は振り向いて、その高慢そうな少女に対《むか》って、なぜかしら、それまでは誰にもしたことのないような反抗の様子を示した。
 それからお午《ひる》の時間になった。小さな生徒たちは教室にはいるなり、先生のお許しも待たずに、きゃっきゃっと言いながら、お弁当をひろげ出した。その目の大きな、異人さんのような少女は、私から少ししか離れない席についていた。みんながその少女だけ特別扱いにするのを変だと思っていたら、それはその幼稚園にゆく途中にある、或る大きなお屋敷のお嬢さんだった。その少女のところへは、お屋敷から大きな重箱が届いていた。そうして附添の小間使いが二人がかりでその少女のお弁当の面倒を見ていた。私はそういう様子をちらりと目にすると、それきりそっぽを向いてしまった。
「食べんの、厭《いや》……」私はおばあさんが私の傍で小さなアルミニウムのお弁当箱をあけようとするのを邪慳《じゃけん》に遮《さえぎ》った。
「食べないのかい……」おばあさんは又私がいつもの我儘《わがまま》をお言いだなとでも云うような、困った様子で、「……ほら、お前の好きな玉子焼だよ。……ね、一口でもお食べ……」
「……」私は黙って首を振った。
 他の生徒たちは私と同じような小さなアルミニウムのお弁当箱をひろげて、きゃっきゃっと言いながら食べ出していた。例の少女のところでは、二人の小間使いが代る代る立ったり腰を下ろしたりして何かと面倒を見ていた。おばあさんは私にすっかり手を焼いて、それ等《ら》の光景を上気したような顔をして見ていた。私の隣席にいた、雀斑《そばかす》のある、痩《や》せた少女が私に目くばせをして、そのちぢれ毛の少女に対する彼女の反感へ私を引き込もうとしていた。が、私がそれにも知らん顔をしていたので、彼女はしまいには私にも顔をしかめて見せた。
 私はとうとう強情に自分の小さなお弁当箱をひらかずにしまった。
 午後からは折り紙のお稽古《けいこ》があった。例の少女のところでは、小間使いが一緒になって、大きな鶴《つる》をいく羽もいく羽も折っていた。私には折り紙なんぞはいくらやっても出来そうもないので、おばあさんにみんな代りに折って貰《もら》いながら、私は何かをじっと怺《こら》えているような様子をして、自分の机の上ばかり見つめていた。
 その日行ったきりで、翌日から又私は、こんどはまるでお弁当の事からみたいに、幼稚園を休んでしまった。
 しかし、その一ぺん見たっきりの、その異人のような、目の大きい、ちぢれ毛の少女は、他の優しい少女たちとはまるで異《ちが》った風に、いかにも高慢そうな様子をして、私がいくら彼女に対して無関心を示しても、いつまでも私の記憶の裡《うち》に残っていた。……


     口|髭《ひげ》


 子供の私は口髭を生《は》やした人に何んとなく好意を感じていた。
 私の父は無髭だった。それからまた私のおじさん達の中には、誰一人、口髭なんぞを生やしている者はなかった。彼|等《ら》は勿論《もちろん》、例外だった。――若し彼等の中で一人でも口髭なんぞ生やしている者があったら、反《かえ》って何かそぐわないような気がされ、子供の私にもおかしく見えたろう。――それに反して、うちへ来る客のなかで、私の特に好意をもった人々は、みんな口髭を生やしていた。その真面目《まじめ》な口髭が私には何んとなくその人に対する温かな信頼のようなものを起させた。この人になら安心していいと云った気もちになれるのだった。――どういうところからそれが来るかは、勿論、私は知りようもなかった。
 その頃、私はよく両親に伴われて、すぐ川向うの、浅草公園へ行った。そうして寄席《よせ》へ連れて行かれたり、活動写真を見て来たりした。又、おばあさんとだけやらされるときもあったが、そんなときには私はいつも球乗《たまの》りや花屋敷などへ彼女を引っぱって行った。(それらの事はまた他の機会にも書けるだろう。――)しかし一番、母だけに連れられて行くことが多かったが、そういう折にはいつも観音《かんのん》様とその裏の六地蔵様とにお詣《まい》りするだけで、帰りには大抵|並木町《なみきちょう》にある母方のおばさん(其処《そこ》のおじさんはきん朝さんという噺《はな》し家《か》だった。……)の家に寄ったり、それからそのおなじ裏通りの、もう少し厩橋《うまやばし》よりにある、或る小さな煙草屋の前まで私を連れて行った。その頃その煙草屋の二階に、皆がおよんちゃんといっている、一番小さなおばさんが一人で間借りをしていた。母は、私をすこし離れたところに待たせて、決して上へはあがらずに、そのおよんちゃんを外へ呼び出して、暫《しばら》く夕やみの中で何か立ち話をし合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
 そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋《あずまばし》の袂《たもと》から俥《くるま》をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝《ひざ》の上に乗せられるのが好きだった。……
 母がまだ父と一緒にならないうちに、向島《むこうじま》の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出《みいだ》す幸福という幸福のすべてが、いかにそれらの子供らしい悲しみにまんべんなく裏打ちされていることか!……)
 そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみち、駒形《こまがた》の四つ辻まで来ると、ある薬屋の上に、大きな仁丹《じんたん》の看板の立っているのが目《ま》のあたりに見えた。私はその看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をかぶり、口髭をぴんと立てた、或《ある》えらい人の胸像が描かれているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこのよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計に好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることが、そうやっておばさん達のところへ母に連立って行くときの、私のひそかな悦《よろこ》びになってもいた。
 その後、私はそのおよんちゃんという人が、目の上に大きな黒子《ほくろ》のある、年をとったおじいさんみたいな人と連れ立って歩いているところを二度ばかり見かけた。一度は私が父と一しょに浅草の仲見世《なかみせ》を歩いているときだった。それからもう一度は、並木のおばさんの病気見舞に行って母と一しょに出て来たとき、入れちがいに向うから二人づれでやって来るところをぱったりと行き逢《あ》った。その目の上に大きな黒子のあるおじいさんみたいな人は、母とは丁寧な他人行儀の挨拶《あいさつ》を交《か》わしていたが、私には何んとなく人の好い、親切そうな人柄のように見えた。


     小学生


 とうとう幼稚園へはあれっきり行かずに、それから約一年後、私はすぐ小学校へはいった。
 その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにまだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだったので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、その町内から五六人ずつ連れ立っていく男の子や女の子たちとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうして学校へ着いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人ぼっちに取残されることを怖《おそ》れ、授業の終るまで、母に教室のそとで待っていて貰《もら》った。最初のうちは、そういう生徒に附き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、だんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになった。
 まだ授業のはじまらない前の、何んとなくざわめき立った教室の中で、私は隣りの意地悪い生徒にわざとしかめ面《つら》なぞをされながら、半ば開いた硝子窓《ガラスまど》ごしに、廊下に立ったままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような目で見た。やっと頭の禿《は》げた、ちょぼ髭《ひげ》の、人の好さそうな受持の先生が来て、こんどは出欠を調べるために、生徒の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬような苦しみだった。自分の苗字《みょうじ》が呼ばれても、私は一ぺんでもってそれに返事をした事はなかった。私はどういうわけか、父とは異《ちが》った苗字で呼ばれることになったので、その新しい苗字を忘れまいとすればするほど、いざと云う時になってそれをけろりと忘れていた。そんなとき、私はふいと窓のそとの母の方を見ると、母がはらはらしながら、私に手ぶりで合図をしている。私はやっと先生が同じ名を何度も繰り返しながら、自分の方を見下ろしているのに気がつき、はじめてはっとしてそれにおずおずと返事をするのだった。
 学校からの帰りみち、母と子とはよくこんな会話をし合った。
「もう明日からは一人で学校へお出《いで》……」
「うん」
「……いいかい、お前の苗字を忘れるんじゃないよ……」
「うん……」私は自分にどうしてそんな父とは異った苗字がついているのか訊《き》こうともせずに、まるで自分の運命そのもののように、それをそのまま鵜呑《うの》みにしようと努力していた。

 そんな或る日、きょうは学校の前までで好いからと言って附いて来て貰った母と一緒に、私は運動場の入口に近いところで、始業の鐘のなるまで、皆がわあわあ云いながら追っかけごっこをしたり、環《わ》になって遊んでいるのを、ただもう上気したようになって見ていた。
 そのとき、数人の少女たちがその入口の方へ笑いさざめきながら、互に肩に手をかけあって、走って来た。そうして走りながら、みんなでくっくっと云って笑っていた。そのなかの少女の一人が、ふと彼女たちの前にいる私の母に気がつくと、急にその群から離れて、母のそばへ来て娘らしいお辞儀をした。それはおもいがけずお竜ちゃんだった。彼女はまだ何処《どこ》か笑いに揺すぶられているような少女らしい身ぶりで、母と立ち話をしていた。その話の間、一遍だけちらっと私のいる方をふり向いたが、――それに気がついて私がほほ笑《え》みかけようか、どうしようかと迷っているうちに、にこりともしないで、再び母の方へ向いて、話しつづけていた。……
「お竜ち
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