ちゃんと私とは、家じゅうのものが午睡をしだす頃を見はからって、そっと諜《しめ》し合わせて、私の家を抜け出していった。
私達は誰にも気《け》どられずに路地を抜け出そうとする間ぎわ、向うからきょうはお竜ちゃんが一人きりでぶらっとくるのを認めて、大いそぎで物蔭へかくれた。お竜ちゃんはそういう私達には少しも気がつかないで、何んだかつまんなさそうな、つんとした、男の子のような顔つきをして、私達の前を通り過ぎていった。……私はなんだか胸が一ぱいになった。そうして何か隠れん坊でもしているように私の背後にかじりついているたかちゃんにふいと冷淡な気もちを感じて、いっそのことその物蔭からお竜ちゃんの方へわあっと云って飛び出してみたいようになるのを、やっとのことでじっと怺《こら》えていた。……
が、まんまと曳舟通《ひきふねどお》りまで私達が出てしまうと、急に私は機嫌《きげん》をなおした。そうして、自分の方から、たかちゃんの手を引張るくらいはしゃいで、その掘割に沿うて、いつも父と散歩にいくのとは反対の方へ――殆どまだ一ぺんも行ったことのない場末の方へずんずん歩き出していた。案内役のたかちゃんの方が、かえって不安そうについて来る位だった。見知らない、小さな木橋を二つ三つ過ぎると、もう掘割沿いの工場や倉庫なんかもずっと数少なになって、そこいらには海のような野原が拡《ひろ》がり出していた。
そういう野原の真ん中に、大きな、赤い煙突のある、一つの工場が見えかくれしていた。それがたかちゃんの父親の働いている硝子《ガラス》工場だった。彼女の話では毎日、彼女の父はその工場で、火の玉をぷうっと吹いては、さまざまな恰好《かっこう》をした硝子の壜《びん》を次から次へと作っているということだった。何べんもその工場へ父に会いにいったことのあるたかちゃんは、そういう父の超人的な仕事ぶりを、あたかも彼女の知っている唯一のお伽噺《とぎばなし》かなんぞのように繰りかえし繰りかえし私に話して聞かせたのだった。そうしてしまいには私はどうしてもそれを自分でも見ずにはすまされない程になって、数日前からそれを誰にも云わずにこっそりと見にいく約束をし合っていたのだった。
が、それは小さな私達にはすこしばかり冒険すぎた。近道をしようとして、私達があとさきの考えもなく飛び込んでいったところは、あちらこちらに自然に水溜《みずたま》りが出来ているような湿地にちかいものだった。が、そういう水溜りをあっちへ避けこっちへ避けながら歩いていると、いくら行っても、依然として遠くに見えている、その魔法のかかったような工場の方へ、私達がだんだん心細くなりながら、それでもどうにかこうにか漸っと近づき出したときは、――それまでそうやって私達を殆ど向う見ずに歩かせていたところの、私達の裡《うち》の何物かへのはげしい好奇心そのものはもうどこかへ行ってしまっていた。それほど、そうやって歩いていることだけに小さな私達は全力を出し尽してしまっていたのだ。
やっとのことで私達はその大きな硝子工場の前まで辿《たど》りついた。私は急にいじけて、たかちゃんのあとへ小さくなって附いていった。やがて、遠くから見るとその内側が一めんに火だらけになって見えるような作業場の中から、てかてか光るような菜っ葉服をきた、彼女の父親らしいものが姿をあらわした。たかちゃんがその傍に走っていって、何かしきりに話し出した。
その菜っ葉服をきた人は、その立ち話の間に、私の方を一ぺんじろりと見たようだった。それからまた少女の云うのを聞いているようだったが、そのうち急にその少女の方へ真黒に光った顔をむけて、二言三言何か乱暴そうに答え、もう私の方なんぞ目もくれないで、少女をそこへ一人残したまま、さっさと又火の中へはいっていってしまった。
少女はその場にいつまでも立ちすくんだようになっていた。私は門のそばに不安そうに立ったまま、もうどうなったって好いような気もちにさえなって、まだ何か未練がましくしている彼女の方を、まるで怒ったような目つきで見ていた。とうとう彼女は首をうなだれて私の方に向ってきた。
私は彼女に何も訊かないで、そこにいつまでも彼女が泣き顔をしたまま居残っていそうに見えるのを、無理に引っぱり出すようにして、二人して工場の門から出た。そうして、来るときは殆ど駈《か》けっこをするようにして突切って来た広い野を、こんどは二人並んでしょんぼりと歩き出した。ところどころにある水溜りがきらきらと西日に赫《かがや》いていた。相手の顔がときどきその反射でちらちらと照らされたりするのを、私達はさも不思議そうに、しかし何んにも言いあわずに見かわした。……
ようやっと私達は、さっきそれを渡った覚えのある木の橋に近づき出した。……
それまで互に口も利《き》き合わずに、ひたすら帰りをいそいでいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえっていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不機嫌《ふきげん》にさせていた、不幸な少女の方だった。
「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そうおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、少女はそっちの方を振りかえって見た。
「ああ、ぼくも見た……」私もやっと自分自身にかえったように、急に元気よく言った。
そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になって歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえった。野の上には、二人の過《よ》ぎってきた途中の水たまりが、いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大きな入道雲が浮び出していた。(実はさっき野原を横切っているときから二人には気になっていたのだった……)それが、いま、極《きわ》めて無気味な恰好に拡がって、もうずっと遠くになった硝子工場の真上に覆《おお》いかぶさろうとしているところだった。さっきから二人を脅かしつづけていたもの、やっとのことで二人がその兇手《きょうしゅ》から逃《のが》れ出してきたものが、いまや、もう二人が追いつきようのないほど遠ざかってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体を現し、そんな凄《すさま》じい異形《いぎょう》をそこでし出してでもいるかのように、二人には見えるのであった。……
洪水
そういう夏が終って、雨の多い季節になった。
毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人で硝子戸《ガラスど》に顔をくっつけて、つまらなそうに雲のたたずまいを眺《なが》めていた。それを眺めているうちに、いつか自分の呼吸《いき》で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともつかないような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描いては、それを拭《ぬぐ》わずにそのままにして、又ほかの硝子戸にいって雨を眺めていた。
そんな硝子の模様は、あたかも私自身のいる温かい室内の幸福を証明しているかのように、いつまでも残り、それに反して、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡《ぬ》れになった無花果《いちじく》の木をば、一層つめたく、気持わるそうに私に思わせていた。その無花果の木は、漸《ようや》っと大きく実らせた果《み》を、私達に与える前に、すでに腐らせ出していた。……
そういうほどにまで雨が小止《おや》みもなしに降りつづいたあげく、或る日、それにはげしい風さえ加わり出した。風は殆《ほとん》ど終日その雨を横なぐりに硝子戸に吹きつけて、ざわめいている戸外をよくも見させず、家のなかの私達まで怯《おび》やかしていたが、夕方、漸っとその長い雨は何処《どこ》かへ吹き払ってしまってくれた。そうしてからもまだ風だけは、そのまま闇《やみ》の中にしばらく残っていた。
そんな夜ふけに、私はふと目を覚《さ》まして、自分の傍に父も母もいないことに気がつくと、寝間着のまま、みんなの話し声のしている縁側まで出ていった。そうして私はみんなの背後から、寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら、その縁側の下まで一ぱいに押し寄せてきている濁った水が、父の手にした蝋燭《ろうそく》の光で照らされながら揺らめいているのを、びっくりして覗《のぞ》いていた。その蝋燭の光の届かない、家のすぐ裏手を、誰だかじゃぶじゃぶ音をさせて水の中を歩いていた。ときどき、暗やみの中で、何やら叫んでいる者がいた。……
そうやって皆と一しょになって、何が何だか分からずに、寧《むし》ろ面白そうにしている私に気がつくと、母は私を寝間に連れていって、「心配しないでおいで。この位の洪水《みず》はいつもの事なんだからね」そう繰り返し繰り返し云って私を宥《なだ》めながら、無理やりに私を寝かしつけた。……が、明け方になって再び私が目をさましたときは、家の中は只《ただ》ならず騒々しくなっていた。私はゆうべ夢の中でのように見たかずかずの事を思い出し、縁側に飛んでいって見た。ゆうべまざまざと見た濁った水は、いまその縁と殆どすれすれ位のところにまで押しよせて来ていた。
父は弟子《でし》たちに手伝わせて、細工場の方に棚《たな》のようなものを作っていた。それはもう半ば出来かかっていた。母は縁側に出ている私を見ると、着物を手ばやく着換《きか》えさせ、「あぶないから、あんまり水のそばに行くんじゃないよ」と言ったきりで、すぐ又向うへ行って、忙しそうに皆を指図《さしず》していた。
私はそこに一人ぼっちにされていた。そのあいだ、小さな私は、自分の前に起っている自然の異常な現象をまだよく判断する力もないのに、それに対してただ一人ぎりで立ち向わせられていたのだった。そのとき、その縁先きまで押しよせてきている黝《くろ》い水や、その上に漂っているさまざまな芥《あくた》の間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたものは、こないだ買って貰《もら》ったばかりの新しい玉網だった。そんな小さな魚や昆虫がそういう得体の知れないような黝い水の上をも、まるで水溜りかなんぞのように、いかにも何気なさそうに泳いでいるのを見ているうちに、それら小さな魚や昆虫のもっている周囲への無関心さとほとんど同様のものが私のうちにも自然と生じてきたのかも知れない。……私はふとそれを思いつくと、どこからか自分でその玉網を捜し出してきて、縁先きにしゃがんで、いかにも無心に、それでもって小さな魚を追いまわしていた
何処かで半鐘が、間を隔《お》いては、鳴っていた。
細工場の方の棚は漸っと出来上ったらしかった。箪笥《たんす》や何かが次ぎ次ぎにその上に移されていった。その次ぎはもう、そこで水籠《みずごも》りをすることになった父たちを残して、私と母とが神田の方へ避難するばかりだった。近所の水の様子を見にやらされた弟子の佐吉は、膝《ひざ》の上まで水に浸ってじゃぶじゃぶやりながら、外へ出ていった。
その間に母は私にすっかり避難をする支度《したく》をさせた。最後まで私が手離さないでいた玉網も、とうとう父に取り上げられた。そうやって父や母などに一しょにいだすと、一人でいたときはあれほど平気でいられた私は、俄《にわ》かにわけの分からない恐怖のなかへ引きずり込まれてしまった。そうして一度無性に怯《おび》え出してしまうと、幼い私のなかの、大人の恐怖は、もう私一人だけでは手に負えなかった。
一方、いままではちゃんと間を隔《お》いて鳴っていた近所の半鐘の方も、そのとき突然自分の立てつづけている音に怯え出しでもしたかのように、急に物狂おしく鳴り出していた。
それを聞いて一層私が怯えるので、最初は父は溝《みぞ》の多い路地を抜けたところまで私達に附添ってくる積りだったのに、とうとう母と、佐吉に背負われた私とについて、全く水の無くなる土手上まで来なければならなかった。土手の上は、私達のような避難者で一ぱいだった。父は大川端《おおかわばた》へ行って、狂おしいように流れている水の様子を眺め
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